2013-04-22

古賀さんの「グローバルな英語」を読んで

古賀洋吉さんというベンチャーキャピタリストが、グローバルな英語とは何かについてこう書いている。

本当にグローバルな場での真剣勝負のビジネスにおいて重要なのは、

* ビジネスレベル以上の英語(重要度: 20%)
* 言った事がちゃんと相手に伝わっている事を確認できること=コミュニケーション力 (重要度: 80%)

というのが実感である。

言いたいことはなんとなくわかる。ビジネスレベル以上の英語が何なのかは置いておいて、彼の言う「言語に関わらず、フェアさ、謙虚さ、真摯さを核とするスキルの集合体」としてのコミュニケーション力というのが存在することは、日米どちらかが祖国かわからない程度に米国に長く居住し多様なバックグラウンドの人たちに囲まれてきた者としても理解できる。

だけどやはり腑に落ちないのだ。英語力とコミュニケーション力にキレイに分けてしまっている古賀さんの理論。

少なくとも個人的な経験から言えば、コミュニケーション力というのは、独立した抽象的な概念としては存在せず、必ず特定の言語に紐づいているものである。ぼくは日本語も英語もたぶん同じくらいできる(あるいはできない)のだが、日本語でコミュニケーションをとる友人たちに言わせれば、ぼくの日本語での会話は概して「オチがなく」「意味がわからない」そうだ。だが今まで一度もそんなことを英語で話す友人たちに言われたことはなく、むしろ「お前の唯一の取り柄は、実はマヌケなのに、あたかも賢いように話すことができる」そうだ。断っておくが、たった一つの、それもすごい主観的な反例を濫用して、古賀さんのフレームワークを反証しようというわけではない。ただ、一応ふたつの言語の間でバランスを取っている人間としては、ひとつの言語に重心を置いている人間の言うことを、真に受けるのは難しい。

コミュニケーション力のひとつのかたちとして、彼はこうも言っている。

つまりどういうことかというと、「自分に相手を合わせさせないで、自分が相手に合わせる」英語が最も重要だということである。言語だけではなく、ミーティング以前に「何を着て何を持っていけばいいのか」も非常に気にする。自分の常識が相手の非常識・失礼になる可能性をよく認識している。ミーティング開始時、「申し訳ないですが、私は英語しかできません。私の英語が早すぎたり、わからないことがあったら止めて質問してください。気をつけてますが、忘れてしまうことがあるので。」と言う人もいる。

これはまさしくその通りで、人間は自分と似た人間に好感を持つというのは、心理学で言われていることである。古賀さんも言っているように、服装から話し方から英語を母語としない人間への配慮まで、相手と極力あわせることは、良い人間関係を生み、ビジネスを成功させるためには欠かせないだろう。

相手とあわせること—それは、非常に英語が上手な人と会った場合も一緒だ。

もし、その英語が達者な人が、古賀さんの言うような思いやりのある人で、自分の英語力に自在にあわせてくれる人なら、それはそれでいいと思う。ただ、本当にこちらが相手を思いやるなら、相手に「この人の英語のレベルにあわせよう」と思わせないですむだけの英語でコミュニケーションを図れるに越したことはない。相手が英語ができる人であればあるほど、普段相手のレベルまで下げて英語を話しているはずで、もし彼・彼女の本来のレベルで会話ができるようにこちらが努力できれば、強く印象に残るに違いない。あの人、日本人とは思えないくらい英語が上手だったなあと。

やっぱり「英語力」と「(英語での)コミュニケーション力」って、分けて考えられるものではないと思う。

ここまで書いて思ったが、古賀さんとぼくとでは、「英語力」の定義というものが少し違うのかもしれない。彼は後半でこう書いている。

もちろん、英語の発音やで文法が完璧で、ネイティブレベルであるに越した事がないのは当たり前だ。しかし、そこに引きずられすぎると、言葉は所詮ツールでしかないという事実を見失ってしまう。発音が完璧か、文法が完璧か、英語的に自然な表現か、といった外から見える形にばかり目が行く気持ちもわからなくもないが、真剣勝負のコミュニケーションにおいては外から見える部分よりもっと大事な事がたくさんあることを軽視してはいけない。

ぼくはアメリカに住んで14年になるが、英語の発音も文法も完璧ではない。ただ村上春樹のふりをしてYelpのレビューも書けるし、鬱に苦しむアメリカ人の友達をチャット越しに笑わせることもできるし、日系アメリカ人相手にツイッターで一本とることもできる。1そういう意味では、自分は相当英語ができると自負しているし、それは単なる発音や文法や表現といった「英語力」に因るものでも、空漠とした「コミュニケーション力」によるものでもない。多分、「言葉は所詮ツールでしかない」と割り切れず、言葉に対して愚かしいほど強い想いを持ってきたことの結果だろう。

ぼくはビジネスのことはよくわからない。古賀さんの言うとおり、ビジネスの真剣勝負の世界では、英語の細やかな表現だとかユーモアだというものは大事ではないのかもしれない。どう言うかよりも、何を言うかなのかもしれない。でも、これだけは言っておきたいのは、言葉は所詮ツールでしかないと思う人間が、英語を高いレベルで習熟することはなかなか難しいだろうということだ。

英語に限ったことではないだろうけど、言語そのものだって「外から見える部分よりもっと大事な事がたくさんあること」を、コトバを愛してやまないブロガーとしては、知っていただきたいのです。

なんか最後、椎名林檎みたいになっちゃった。



  1. これは本当に本当に悪い癖なので、やめようと思う。

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