2012-05-06
国際的穏健派の誕生:アメリカにいる日本人を観察してみて
渡米してから13年近くなるのだが、つい最近まで、日本から渡米してきた日本人に会う機会がほとんどなかった。ぼくは高校はニューヨーク市で過ごしたし、大学は西海岸なので、物理的な意味での周囲には、たくさん日本人がいたのだろうが、なかなか知り合うことがなかった。ひょっとしたら英語を覚えたり、アメリカで生活していくことに必死で、日本人と時間を一緒に過ごす精神的な余裕がなかったからかもしれない。
何はともあれ、アメリカにいる日本人を観察していて、気がついたことがある。彼らの価値観は、一世代前に渡米してきた日本人のそれと、大きく異なっていることだ。ざっくり言ってしまえば、20−30年前に渡米してきた日本人は、アンチ日本の方々が多い。ことあるごとに日本とアメリカを比べ、いつも結論は、「これだから日本は...」という批判的なものに収束する。それに比べ、この一年少しで出会った滞米中の日本人は(舌足らずな表現になってしまうが)穏健な思想を持っている場合が多い。彼らは「日本は〇〇はいいですが、△△はアメリカを見習った方がいいかもしれない」といった、バランスのとれた意見を持っている場合が多い。ぼくは何十年もアメリカで日本人を観察してきたわけではないが、この穏健派の誕生は、つい最近のことのような気がするのだ。国粋主義的にアメリカを批判したり、外から一辺倒に日本を批判するわけでもない彼らのことを、国際的穏健派と呼ぶことにする。
でもって、この国際的穏健派は、どうして生まれたんだろうか。
2-30年前に太平洋を渡ってきた日本人は、大きくわけて二種類だったと思う。ひとつは、アメリカで学び、「はく」をつけ、その学位を帰国後ぶん回し、仕事をまわしてきた人たちだ。ぼくは彼らをトンボ帰りエリートと呼んでいる。もうひとつは、日本社会からはじかれ、あるいは日本社会のあり方を拒絶し、新天地を求めて渡米した人たち。その後の半生は十人十色だろうが、アメリカに永住している人たちだ。雑な言い方ではあるが、そう考えると、アメリカに永住している一世代前の日本人に普遍的アンチ日本が多いのも頷ける。もともと日本がダメで渡米してきた人たちなのだから、選択バイアスがかかって当然だ。
先の国際的穏健派は、トンボ返りエリートでもなければ、普遍的アンチ日本でもない。でもって、この新しいアイデンティティの確立が、彼らの穏健性を裏付けていると思うのだ。
穏健派の人たちをみていると、人生のいくつかのオプションの一つとして渡米してきた人が多い。「面白そうだから」という漠然とした目的の人もいれば、「勉強したい分野では、たまたまアメリカの、とある大学が先端だったから」という具体的な理由があったりと多様だ。ただ、共通して言えるのは、彼らの中では、「日本で生きていく」ことも「日本で生きていかない」こともオプションの一つとして捉えていることだ。これは、あくまで生活および価値観の中軸を日本に据えているトンボ帰りエリートや、日本の地を二度と踏まんでもよいと考える普遍的アンチ日本とも、一線を画している。ざっくり言ってしまえば、余裕がある人たちなのだ。
余裕があると、いろいろな事象を多角的に捉えられるようになる。例えば、雇用ひとつをとっても、「日本の終身雇用はクソだ」とか「アメリカは誰も長いこと働かないから大きなプロジェクトをやるのが大変だ」といった過激な意見を諌め、「終身雇用だと、長期的に人材を育てられるし、働く方も、アメリカのように次の職場のことを常に考えている必要がないから、仕事に集中できるかもしれない。ただ逆に、安心しきってしまってだらけてしまったり、本当に能力がない人や、職種にフィットしない人を切るのが大変で、非効率的な一面もある」という風に捉えるようになる。中立的な意見を生み出すこと自体は、過激な人たちもできるだろう。穏健派の人たちが違うのは、おそらくそういった中立的な意見を心底信じていることだ。
穏健派が穏健派でいられる決定的な要因は、海外にいながらにして日本でも生きていくキャリアパスを、漠然とかもしれないがキープしているからだ。つまり、日本社会のレールから、留学あるいは就職というかたちで一時的に離れても、後で戻れる足場が確立されている、いわゆるエリートたちだ。そう考えて思い返してみると、ぼくがこの一年で会った穏健派の日本人たちは、みな知的階級の人間だ。
個人的には、この国際的穏健派エリートたちが、日本の将来に大きな影響を与えると思っている。彼らは日本の良さを海外にアピールし、また日本の抱える問題点を、建設的なかたちで指摘することができるからだ。日本を妄信的に崇めるだけならば国粋主義者のエリートもできるし、日本の悪口なら普遍的アンチ日本クラスタに任せればよいだろう。ただ、両方とも非建設的であるばかりで、日本という国の何の役にも立たないので、あくまでも娯楽の一環でしかない。過激な意見が飛び交うのは楽しいが、やはり変化が起きるのは、穏健派が位置する境目だと日頃から感じている。