2012-12-22

個人的な偏見

事の発端は、以下の猪瀬直樹氏のツイートだった。

性的少数者の人権を認めます。RT @go_lgbt: 猪瀬直樹さま、はじめまして。 私は東京都に住んでいるふーと申します。同性パートナーと12年一緒に暮らしています。性的少数者の人権や同性婚やパートナーシップ法についてどのようにお考えでしょうか。@inosenaoki

「性的少数者の人権を『認める』とは、猪瀬てめえ何様だ」という議論が方々で起こったようだ。

ぼく自身も、最初このツイートを目にした時には、猪瀬氏の無神経さに憤り、彼の発言に垣間みる日本のエリートの視野狭窄度合いに再び失望した。

だが、その後悶々と考えているうちに、ぼく自身の考え方にも問題があるのではないかと思うようになった。ここに書くのは、偏見と価値観について、ぼくが20数年考えてきたこと、そしてそれに関して最近ようやっと得た一つの結論だ。1

「ガイジン」

思い起こせば、ぼくは色々な「ガイジン」に囲まれて育った。ぼくの母親はかなりぶっ飛んだ人間で、何を思ったか60年代にアメリカの大学を受験し、右も左もわからぬまま渡米したかと思えば、卒業後はヨーロッパで就職した。人生の約3分の1を欧米で過ごし、英日仏の3カ国語を話し、170センチもあるのにピンピールを履いて授業参観に来るオカンは、どの友人の母親と比べても奇抜で独特だった。2

「おまえの母さんガイジンだよな」

子供のころ、何度も友達から言われたことである。まんざら間違っていなかったかも。

昨秋も、買い物がてらにドイツ人を連れ帰ってきたが、ぼくが小学生の時には、中国人の留学生をうちに連れてきた。知り合いの牧師さんの紹介で、日本での親代わりをするという。その日から、留学生の彼(仮に毛毛さんとしよう)が日本の大学に進学するまで、2年ほど一緒に住んだ。毛毛さんとはその後も15年に渡り交遊があり、先日第一子を授かった彼のところに、両親と2人で訪ねに行った。

毛毛さんと一緒に住んでいた小学生の頃は、自分の環境を大して不思議だとは思わなかったが、大人になった今思えば、相当ムチャクチャだ。親代わりを立候補した母親もすごいが、それに対してふたつ返事でいいよといった父親も、多分変わっているのだろう。

まあ話しだせばキリがないのだが、ぼくはとにかく沢山の「ガイジン」に囲まれて育った。そして、一番近いところにいる「ガイジン」の母親が口をしょっぱくして言っていたのが、絶対に「ガイジン」という表現を使ってはいけないということだった。

確か小学生の頃である。

例えばね、母さんの昔の同僚でね、B子ちゃんっているの。B子ちゃんはね、在日なの。あなた在日ってわかる?日本で育った韓国系の人のこと。正確にはB子ちゃんはお父さんが韓国人でお母さんが日本人のハーフなんだけどね、彼女は韓国人としてのアイデンティティをすごい強く感じて育ったの。

B子が随分長い間付き合っていたボーイフレンドがいてね、Yっていうんだけど。Yは本当にかっこいいしイイやつで、みんなでこのまま結婚だねーみたいな話をしてたのさ。それがさ、ある時B子から電話があって今から会いたいっていうのよ。そして私の部屋に来てね、アイシャドーが溶けて甘栗みたいに泣き腫らした目でさ。どうしたのって聞いたら、Yから別れ話を切り出されたって言うのよ。なんでって聞いたら、Yの両親が在日の女となんか付き合うな、ましてや結婚なんて言語道断だってね。

忘れもしないわ。そしたらさ、たまたま私がかけていたラジオでね、ダ・カーポの「結婚するって本当ですか」が流れてね。ダ・カーポ知ってる?けっこーんーするってぇーほんとおですっかーって歌。

母親は昔からぼくのことを子供扱いせずに話した。

それを聴いたB子がまた号泣よ。なんで私のお父さんは韓国人なのよ、韓国人で何が悪いのよって。あなたまだわからないでしょ、自分のアイデンティティを否定されることがどれだけ辛いか。でもね、絶対ガイジンって言ってはだめ。外人って「外の人」よ。外ってなに、内ってなにって話でしょ?じゃあB子はガイジン?日本で育って日本語を話すのにガイジン?お母さんニホンジンなのに?ガイジンって何?意味がわからないもので人のアイデンティティを一括りにしていいと思う?

似たような話をぼくは何度も聞かされて育った。日本で生まれ、ネイティブな日本語を話すのに、インド人であるからというだけで何件も飲食のバイトを断られた人の話。「ぼくは日本が大好きだけど、やっぱりぼくはガイジンなんですよ」と彼は諦め半分で言っていた。先に挙げた毛毛さんも、「優しい日本人もいれば、あまりそうでない人もいるね」と、彼らしく遠回しに語っていた。

そんなこんなで、ぼくは「ガイジン」という表現に、尋常ではない拒否反応を抱く。ぼくの近しい友人でも、何の悪意もなく「ガイジン」と言う人は何人もいる。「確固たる定義はないけれど、なんとなく雰囲気的に日本人ではない人たち一般」という意味合いで。その度に、ぼくは彼らを注意したい衝動を抑えるのに必死になる。彼らに何の悪意もないことは知っている。だが悪意がないからと言って、聞き手が悪意を感じないということではない。

「ガイジン」という表現は、ことごとく曖昧である。人生半分以上をアメリカで生きてきたぼくは、ぶっちゃけ毛毛さんや、さっきのインド人の知り合いや、母親の元同僚のB子さんよりも、ある意味はるかに「ガイジン」だ。ただ、ぼくのことを(冗談まじりに)「ガイジン」と形容するのは、昔からの近しい友人くらいのものだ。日本人を親に持ち、日本人っぽい抑揚で日本語を話すぼくは、「ガイジン」というレッテルを回避できてしまう。英語で夢を見て、日本の「空気を読む」という文化をイマイチ把握できないのに、表皮的な理由のみで、外の人ではなくて、内の人として見てもらえる。なんとも皮肉である。

「ガイジン」という表現を使うやつは無神経で視野が狭いやつだ—長い間ぼくが持っていた一種の偏見である。

「ホモ」

いわゆる日本人と話をしていて、「ガイジン」という表現と同じくらいギョッとするのは、日本人のLGBTに対する理解のなさである。それこそ知的階層・エリートとされる、もっとも教養が高いはずの人たちですら、平気で同性愛者をバカにしたり、嘲笑したりするのをみると、ぶん殴ってしまいたい衝動に駆られる。

性的趣向に関しても、うちの母親は再三差別をしてはいけないと言っていたが、ぼくのLGBTに対する考え方に誰よりも影響を与えたのは、大学時代に一緒にコンパイラーのクラスを履修したGくんだった。

Gくんは東海岸出身で、両親はソ連から亡命してきた学者だった。アメリカでは、高校卒業間近に、男女でペアになって行く「プロム」という卒業パーティーがあるのだが、Gくんはそれの帰り道にはたと気づいたそうだ。自分は女の子に性的な興味が持てないのだと。

共通の友人もいたこともあり、ぼくとGくんは、コンパイラーを作るという課題のチームメートになった。今もたいしてプログラムが書けるわけではないが、当時は本当にからっきしで、Gくんには色々と迷惑をかけた。「なんでお前はこんなこともできないんだ」と散々罵詈雑言を吐かれたが、「ねえこのままでも100点中60点は来るから提出しちゃおうよ」と僕が白旗をあげても、「いやまだだ」と頑張ってくれる頼もしいやつだった。

彼がゲイである話をしたのも、夜な夜なのコンパイラー作成に行き詰まり、休憩をとった時だった。

—Gってゲイだよね。
—そうだよ。
—へえ。
—大丈夫だ。お前みたいなブスには興味ないから。
—w
—お前ダサいし、コードは書けないし、本当に最悪だな。
—wてか両親には言ったの。
—言ったよ、去年。
—で...?
—問題がないわけないだろ。親父に言われたよ。「おれはお前とM(Gの妹)の為に命からがらソ連を逃げ出したんだ。お前たちの将来のために。それのお返しがこれか」だってさ。
—じゃあもう全然理解が得られない。
—ああ全くだ。まったくない。母親も一緒だ。てかアルゴリズムの教授でSっているだろ。
—ああいるね。
—おれあいつ苦手なんだよ。あいつロシア系ユダヤ人だろ。うちの親父もロシア系ユダヤ人の教授でさ、話し方がまったく一緒だ。講義に行くと親父に説教されている気分になる。

後日共通の友人から知ったことだが、勇気を振り絞って両親に自分はゲイであると伝えたGくんに対して、両親は学費を出すことを拒否したそうだ。月謝の工面に窮したGくんは、大学のLGBTのコミュニティに相談し、部分的にだが奨学金を出してもらえることになった。残りの足りない部分は、大学からローンを組んでいたらしい。

ヘテロセクシュアルではないから、「フツウ」の恋愛ができないからという理由で、両親から勘当されたGくん。その話を聞いて以来、性的趣向を理由に差別をするのは絶対にやめようと肝に銘じた。

ホモだレズだと言って軽率な発言をするやつは品性下劣である—これまたぼくの強い偏見である。

「偏見を持ってはいけない」

アメリカに住む年月が増えるにつれ、日本人の知り合いと話をする時にギョッとする回数が増えていった。「で〜なんかガイジンがいて〜」「てかあいつホモなんだよね〜」「あの中国人まじうぜーんだよ」「インド人とかって家臭くない?」

ギョッ。ギョッ。ギョッ。ギョッ。

その度にぼくは黙ってうなずいてきた。正直、他の部分では非常に尊敬している人が、ふとした瞬間に、悪びれることもなくアッサリと差別的な発言をすると、本当に辛い。大好きなアイドルが鼻くそをほったり、オナラをしたりする場面に出くわす感覚と似ているのかもしれない。

ただ、もう一度考えてみると、そういった偏見を持った発言をしている人たちを拒絶している自分も、また偏見に満ちた人間なのではなかろうか。端的に言ってしまえば、ぼくは今まで、彼らの価値観を、矮小で見苦しいものだと決めつけ、暗に否定してきたのだ。ただ、もう一度立ち戻って考えてみれば、「『ガイジン』という表現を使うやつはサイテーだ」と断定する人は、「ガイジン」という表現を無神経に使う人と同じくらい寛容さに欠けている。今目の前で「ガイジン」という表現を使った人は、ひょっとしたら本当に、いわゆる生粋の日本人にのみ囲まれて育ち、彼(女)の世界観の中には、本当にニホンジンとそれ以外=ガイジンしかいないのかもしれない。これは「ガイジン」を「ホモ」に置き換えても一緒だ。相手がどのような環境で、どのような視点で生きてきたかも知らないのに、発言のひとつやふたつで、その人を否定してはいけない。相手に、より寛容で、醒めた物の見方をしてほしいと本当に願うなら、まずは相手が仮定している世界観を知るべく尽力するべきなのだ。ハナっから相手を否定しても、誰も幸せにはならない。

ぼく個人のことを振り返れば、ふっ飛んだ母親や、14歳で渡米したおかげで、こと人種とか、性的趣向だとか、宗教だとか、男女の平等とかいう意味では、かなり寛い考え方を身につけさせてもらったと思う。ただ、ぼくだって狭い価値観で満ちあふれていて、気がつかないところで人々をギョッとさせている可能性は大いにあるのだ。そして、ある一定の事象に対して寛い視野を持っていても、それに関して自分より視野の狭い人に寛容になれなければ、それは真の意味で寛い視野とは言えない。

だからこそ、ぼくは猪瀬氏をどうこう言うつもりはない。彼には彼なりの人生経験と視点があり、それに基づいてああいう発言をしたのだ。大事なのは、その発言に対する強い非難の声を聞き、彼が今後どう考え方を進化させ、どのような発言をしていくかだろう。

いわゆる論理学的な意味で、唯一妥当(valid)な偏見というのは、「偏見を持ってはいけないと決めつけてはいけない」という偏見だというのが、ぼくの20数年に渡る思索の一旦の終着点である。


さあ、明日からの旅の荷物を詰めよう。まだ2時間ちょいある。(ということでブログは一週間ほどお休みです^^)



  1. なぜ今書くかと言えば、この時間に寝てしまうと明日の飛行機を確実にミスるからだ。せっかく起きているのだからブログを書こうというのは、ごく自然な発想だ。

  2. マザコンと言われるのを承知だが、うちの母ちゃんは圧倒的にカッコイイと思っている。

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