2020-05-19

大きさと、散らばり具合と

この数ヶ月間、いろいろなものの大きさと散らばり具合について考えている。

たとえば政府。

大きな政府vs小さな政府というのは、ここ数十年の政治を語る上で、避けては通れない二項対立だろう。僕が住むアメリカだと、基本的に右派が小さな政府を望み、左派が大きな政府を望むという構造の中で随分長いことやってきた。しかしこの構造も、COVID19へのトランプ政権並びにそれに対する国民を反応を見ていると、変わりつつある。

トランプは小さな中央政府の支持者だとされている。が、その中でも、彼らは自分の政府、つまり中央政府の力を誇示することに重きを置いてきており、それは今回のCOVID19での対応でも明らかになった。州知事がコロナ禍で慌てふためく中、率先して助けることもしなかった。これだけならば伝統的な小さな政府のアプローチであるが、彼が今までの右派と大きく違うのは、「助けて欲しければ、州知事たちは自分のところに『お願い』に来るべきだ」というスタンスを通した点だろう。彼が望んだのは、総体的に小さな政府ではなく、相対的に小さな地方政府とも言える。イメージとすると、政府の総和は小さく、その中における散らばり具合は偏っているモデルだ。

たとえば会社組織。

本社機能を一箇所に集中させ、支社はあくまでも営業及び顧客サポートを担当する、という仕組みを取る会社は多い。先日社員の25%をレイオフしたAirBnBなどをみても、エンジニアとデザイナーはほとんどサンフランシスコ本社に集中していたことがわかる。

その一方、GitlabやAutomatticのように、初日から全社員リモートで働いてきているスタートアップもある。これは別にスタートアップに限ったことではない。大きな会社でも、Twitterのようにリモート勤務を今後のスタンダードにする会社もあれば、Appleのように早ければ夏にはオフィス勤務に戻そうとしているところもある。様々な役割の人たちが秘密裏に協力し合って初めて製品ができる会社に於いて、人が散らばることは難しい。Zoom越しのコラボで次世代iPhoneを作り出すのは到底無理だ。その反面、Twitterを初めとするウェブサービスは、APIをのりしろに、幾分切ったり貼ったりして製品を作ることができている。何を作るかが、どこまで散らばって作れるかを支配している感じだ。

たとえばメディア。

今回ニューヨーク市でコロナの真っ只中で生活しているのだが、毎朝必ず読むのが、ローカルメディアのGothamistだ。ニューヨークにはWSJとNYTというグローバルスタンダードな新聞社が二社あるのだが、地域の細かいニュースは拾ってくれない。どこで抗体検査を受けられるのか、とか。どこが歩行者天国として開放されるのか、とか。規模の経済が必要な今のメディア商売に於いて、ローカルニュースは数字がとりづらい。必然的に大手のマスコミは、リーチを拡げるために、読者ひとりひとりが住むまちの話ではなく、国政・外交といった巨大な規模の話でページを埋めることとなる。そして話の大きさの粒度は一様に大きくなり、生活範囲がきゅっと狭まった今のアンテナには引っかからなくなった。

そして、たとえばコロナ被害。

ちょうど一ヶ月ほど前に、あえてコロナの中心地に残った理由を書いたが、蓋を開けてみると、戒厳令が敷かれてから60日経った今日、ぼくが住むエリアの死者は1人、およそ10万人換算で11人。東京の人口が1300万人、死者241人なので、おなじ10万人単位で比べると2人弱。東京よりは「危ない」かもしれないが、さほど違いはない。ひるがえってニューヨークでも被害の多いStarret City1では、10万人あたりで600人以上が亡くなっている。外の世界からは、「コロナの中心地」と憐憫と恐怖の目で見られているニューヨーク。それでも、たった数キロ離れているだけで、これだけ被害に差がある。

これは何についても言えることだが、我々は大小で物事を捉えたがる。社員が多いか少ないか。被害が大きいか小さいか。規模が大きいか、小さいか。ただ、分布というか、散らばり具合によって、その大きさや小ささが持つ意味が大きく変わることが多々ある。自宅待機要請の終わりが見え、春たけなわのニューヨーク。ポツポツと増え始めた人の流れを眺めながら、どれだけ外に出るかと同じくらい、どう外で過ごすかに配慮していくべきなんだろうと考えていた。



  1. ちなみにStarret Cityは、半市営団地で、トランプ一家も家主に名を連ねている。

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