2020-08-09
On “On Love”
紙の本はやはり良いーそう実感する出来事があった。
コロナ禍での自粛も4ヶ月を超え、スマホのゲームにも、YouTubeのレコメンド迷宮にも、そろそろ食傷気味になった7月、少しずつ積ん読消化を始めることにした。
僕の積ん読には二種類ある。自分でいつか読むと決めている本と、知り合いから貰った本。貰った本は、どれだけ自分の興味から離れていても、読まずに寄付、といった蛮行に出ることができない。相手が折角くれた、新しい世界観への招待。そう簡単に、むげにはできない。
とは言え、筆者もむらっ気のある読書家なので、何年も積ん読中の本も少なくない。最近ふと手にとった“On Love”も、そんな一冊だった。
恋愛小説は、昔からさほど好きではない。そもそも大雑把な性格で、心の機微をこと細かに描く、というコンテンツに、惹かれないのかもしれない。この本をくれた、いや、置いて行ったのは、当時付き合い始めだった今の彼女で、これまた意味深なタイトルの本を置いていった、と当時は思いつつも、そのまま放置していた。今回手にとったのは、地球の反対側に住む彼女のことを考えるうちに、この本のことを思い出したから…だと素晴らしかったに違いない。実際のところは、たまたま寝室にある備え付けの棚に積んである未読書の最上部に位置していたからだ。
“On Love”の著者Alain de Bottonは、チューリッヒの名家に生まれたスイス人だ。英国の名門大学ケンブリッジで哲学を学び、ハーバードの博士課程在学中に書いたデビュー作が、今回の積ん読解消エクササイズのパートナーである。de Botton氏は当時24才、今の筆者の一回り年下だ。そんなぴかぴかの欧州エリートの若者が考える愛とは何ぞやと読み始めた。
これがなかなか巧妙な本で、何か国語にも翻訳されるベストセラーになるのも肯ける。西洋哲学のモチーフを、半ば自虐的(ひょっとしたら自伝的)に主人公の恋バナに当てはめていく。ウィットの効いたプロットは、さしずめ大人向け「ソフィーの世界」だ。そんな沿岸部エリートのデザート的小説を、そこから思想的にも趣向的にも程遠いところに位置する自分が、丑三時にほうじ茶をすすりながら読んでいる。貰った本だからこそ実現するシュールな状況と言える。
3分の1ほど読んだあたりで、ぱらっと小さな紙切れがページの間から落っこってきた。栞かなと思い拾うと、見慣れた彼女の字でメモが書いてある。その内容は…残念ながらここでは書けない(この文章を読むかもしれないのでね…)が、当時この本を読みながら、彼女も色々と考えていたのだろうなと想像させるものだった。止まった時間の中にそっとメモを戻し、読書を続けた。
最近、「受け継ぐ」ことと、「共有」することについて考えている。
オンラインの資料や読み物は、「共有」しやすい。リンクを渡せばそれで終わり。PDFだって、コピーするのは一瞬だ。大事な書類や写真を失くす心配は、ほとんどなくなった。
その反面、紙の資料や書籍は、共有に向いていない。同時に参照することが難しく、複製がメンドクサイからだ。なので、我々は、一時的に、あるいは恒久的に、「受け継ぐ」ことになる。両親の蔵書、友だちのマンガ、古本屋で探し当てた専門書のページを彩る蛍光色のハイライト。
たとえば、筆者のデスクにあるマルクス作品集は、数年前サンフランシスコで買った。収録されている「ユダヤ人問題によせて」の一文“...it is man as a bourgeois and not man as a citizen who is consider the true and authentic man”に引かれた下線、並びにその下の“Human Essense”という手書きのコメントも、本そのものと一緒に、前の所有者から受け継いだことになる。ぶっちゃけた話、このコメントが意図するところがよく理解できていないので、しっかり受け継いだとは言い切れないのだが。
そう言えば図書館も、本を「受け継ぐ」場所である。同じ本を2人が同時に借りることはできない。僕は紙の本を図書館で借りるたびに、前にどういう人が読んだのだろう、次にどんな人が読むのだろう、と想像する。ページの余白にコメントが書いてあったりすれば、ちょっと得した気分になる(本当は図書館の本に書き込んじゃいけないんだろうが)。映画“ラブストーリー”の最後の場面も、紙の本だから成り立つ話だ。
受け継ぎと共有は、相対する概念なのかもしれない。今、たくさんの人に共感してほしい共有。いつか、特別な人にメッセージを込める受け継ぎ。一瞬の共鳴と、一生の感銘。広く短く、あるいは細く長く。
読み終わった“On Love”を本棚に戻す。この哲学的恋愛小説、次に受け継ぐのは、果たしていつ、そして誰だろうか。