2020-06-28

狭く定義し、広く議論する

最近、誹謗中傷が話題だ。

僕の狭い観測範囲ですら、毎日のようにタイムラインに上がってくる。それは誹謗中傷そのものもそうだし(大体は有名人による晒し引用RTというかたちで)、誹謗中傷に関するメタな話もそうだ。けんすうさんの誹謗中傷かどうかよりも、批判の量のほうが問題じゃないかなという話や、佐々木俊尚さんの「安倍首相なら何を言われても仕方がない」と本当に思いますかなど、記憶に新しい。

もちろん彼らの言うことは正論だ。SNSに於ける99%のリアクションは非生産的で、恣意的で、陳腐な残酷さに満ちている。最近Twitterを「人間の本質を可視化したもの」と表現した方がいたが、言い得て妙である。

ただ、多分これを読んでいる人は、善意に満ちた、とは言わないまでも、できれば自分の発言で人を不幸にしたくないと思っているだろう。その1%に向けて、そして以前、誹謗中傷とも言える炎上記事たちで連日ホッテントリしていた過去の自分への反省文として、今の考えをまとめてみる。

批判ではなく議論を

まず大前提として、僕はインターネットを議論の場として使うことは、非常に生産的であり得ると考えている。いや、信じている、と言った方が良いのかもしれない。場所と時間を超え、ネットワーク越しに文字で物事が進められるインターネットは、確実に人類の知的生産活動を促してきた。なので、これからも、多種多様な人たちが好きなことを議論できることを願うし、そのためにも、議論と批判を分けて考える必要があると思う(誹謗中傷は論外、と言うことについては後述する)。

議論と批判の差はなんだろうか?

議論はコミュニケーションの手段だ。必ず相手がいて、その相手とアイデアを言葉に乗せ、交互に投げ合う。相手が今どういう体勢なのか確認し、取りやすいところを目掛けて。相手の主張を理解しようと真摯に聴き、結果的に考え方が違った時に、相違点を相手の言葉で説明しようとする。これが議論だ。

その一方で、批判はアウトを取りに行く決め球だ。つまりルールに則った範疇で相手を討ち取るための手段。もちろん相手が何を考えているのか、どう構えているのかを注視する。だがそれは、相手が望むところに球を投げるためではない。むしろ相手の弱点を突くためだ。盲点をつき、見逃し三振をさせる快感を、小利口なインテリなら一度は感じたことがあるだろう。

議論の目的がコミュニケーションを続けることならば、批判の目的はアイデアを潰すことだ。

もちろん生きていく上で、時として批判は必要だ。ただそれは、相手の間違いを正すことの方が、相手を傷つけないことよりも優先される時のみだ。そして、これこそ10年くらい前の自分に伝えたいのだが、批判が必要な場面というのはごく稀である。

批判を迫られる場面はふたつしかない。自分の生き方を脅かす間違いを正す時と、相手の生き方の間違いを正す時だ。そんな場面はそうやってこないし、やってきたとしても、その舞台はツイッターのリプ欄でも、インスタのコメント欄でもないだろう。

じゃあインターネットで生産的に議論をするにはどうしたら良いだろうか。

議論の前に定義を

生産的な議論をする上で欠かせないのが、その対象の明確な定義だ。そして、明確に問題を定義することは難しい。その一番の理由が、明確な定義づけという行為が、本質的に自分以外の人間の為に行うものだからだ。人間は自己中心的にできているので、自分に無利益な作業はサボりがちである。

わかりやすく顕著な例として真っ先に思いつくのが、雑な限定詞の多用だ。「全員」、「一人も」、「ゼロ」、「全て」。どれも強く限定する言葉で、それが修飾する命題は、得てして主張する者の希望的観測か、議論する意味を持たない自明なものである。

「全てのトランプ支持者はレイシスト」。「誹謗中傷する奴は全員クズ」。「リベラルインテリは全員偽善者」。どれも歯切れは良いが、事実とは到底言えない。さしずめ自明な主張の一例として、「誹謗中傷は全部クソ」を挙げておく。

一発で自分の言いたいことを定義できるケースは稀だ。なので、一旦言いたいことを書いてみた後、それを世界にぶつけるのではなく、より低い姿勢で共有するのが、最初のステップだと思っている。当然この段階で、色々と反応がある。使っている言葉の意味を聞かれることもあれば、「あなたの言っていることは間違っている、なぜなら〇〇という反例があるから」と指摘されることもある。

ここで大事なのは、それらを自分への攻撃として捉えるのではなく、自分の主張の再定義の糧とすることだ。これを数回繰り返しているうちに、徐々に言いたいことが明確になり、言葉もキュッと締まる。その過程で、実は大して意味のある主張をしていなかったと自省することもあるだろう。その場合、無駄な議論が省けるので、関係者全員が得をすることとなる。

議論を場合わけする

共有された明確な定義は、生産的な議論の必要条件ではあるが、十分条件ではない。いくら定義が明確でも、その受け手が、批判ではなく、議論をしようという姿勢がなくてはどうしようもない。

先に議論の中枢にあるのはコミュニケーションと書いた。コミュニケーションは積み上げるものなので、最初の一手を間違うとそこで終わってしまう。なので以下、相手の主張に対する自分の立ち位置ごとに、最善の一手を考えてみる。

まず、相手の主張に賛同できない場合。この場合、相手の主張の根拠を知る必要があって、それを素直に聞くとよい。この段階で、相手の主張を否定する必要はなく、むしろ否定した時点で批判になる。根拠を理解した上でそれでも賛同できないとすれば、それは根拠の出典と解釈という別の話になるので、そこから議論を再出発させればよい。

次に、相手の主張が理解できない場合だ。これは感情的な意味で、ではなく、論理的に、である。つまり、相手が「AだからBである」と言っているのだが、自分的には「AだからBとは必ずしも言えない」と思うケースだ。この場合、2つの選択肢がある。ひとつには、ここで諦めて、議論を止めることだ。思考的公理を共有できない状態で議論を続けた先に待っているのは、壮大の時間の無駄とMPの消費なので、さっさと切り上げるのも一手だ。別に捨て台詞を吐く必要はない。単に会話をストップするだけだ。もう一つの選択は、相手の公理系の把握に努めることだ。そのためには、「揚げ足を取るわけではなく、その考え方を理解したいので、Aの代わりにCならばどうなりますか?」という風に、他の前提を使い答え合わせをする。時間はかかるかもしれないが、相互理解/摩擦の比率を最大化する最善の手だと思っている。

最後に、そしてこれが一番良いパターンなのだが、相手の主張を進化あるいは深化させられる雰囲気が漂っている場合だ。これが一番議論としては楽しいし、生産性も高い。面白いことに、これが起きる一番のタイミングは、数回に渡り、主張の定義→議論→主張の再定義→議論のループを回した後だ。帰納的な作業を何度かやっていると、ふと演繹的な理解が得られる、とも言える。

誹謗中傷は論外

最後になったが、誹謗中傷は何より論外である。少なくとも僕としては、相手の人となりに言及することは、インターネットに於いては必要ないと思っているし、特にネガティブに言及するならば、それは誹謗中傷である。「バカ」、「ブス」といった直截的なものから、「間違った発言をして恥ずかしくないの」、「レベルの低い会話」、「勉強が足りない」といった主観的形容まで、すべて誹謗中傷だと言えるだろう。

その一方、「このデータは間違っている」、「このソースの信頼性は低い」みたいな事実や仮定にまつわる指摘は、お互いを慮ってやれば、きちんとした議論につながるはずだ。捕球しやすいように投げた球も、相手が散々鉛玉をぶつけられた後では上手くキャッチできない、というのが今のSNS言論の悲哀じゃなかろうか。

狭く定義し、広く議論することが、インターネットが可能にする思想的偶発性を担保しつつも、心を痛める人の逓減につながると信じている。

Creative Commons License