2011-10-20
Chikirinの正体
最近、友人がChikirinの日記を紹介してくれた。日本で有数のアルファブロガーだ。かなりの高ペースで良質な記事を書いている人で、鋭い洞察力には舌を巻く。まだ読んだことのない人たちは、是非購読するといい。正味な話、新聞の社説なんかよりも考えさせられる記事が多い。
書く記事もすごいのだが、それよりもぼくが感心したのは、この人のセルフブランディングだ。自称「おちゃらけ社会派」なのだが、実際はおちゃらけてもいなければ社会派でもないのだ。2009年の上杉隆との対談で、彼女はこう述べている。
日本ではマーケットに評価されることの大切さを、理解していない人が多い。なので会社や業界の中で評価されることを気にしているけれど、マーケット……つまり部外者には「どうせオレのことなんか評価できないだろう」といった考えを持っていますね。しかし大切なのはマーケットに評価されることによって、「1人前」と呼ばれることだと思う。
これを読んだ時に、ピンときた。この人、実は社会派よりリバタリアンじゃないのかなと。
リバタリアンというのは、哲学・政治の考え方で、「個は自由」という信念が根幹にある。リバタリアンは政府による統制を拒み、所得税に反対し、宗教・性癖・人種などによる差別制度を認めない。もちろん、その反面、彼らは社会に助けてもらおうとは考えていない。
リバタリアンの大きな特徴として自由市場の肯定があげられる。自由経済というのは、カンタンに説明すれば「放っとけば市場原理が全てを解決する」という考え方だ。裏を返せば、政府の市場介入に対する反発なのだが、これも先ほどの「個は自由」という信念に関連してくる。
仮に政府が市場での取引に干渉したとしよう。金持ちに不利な新しい取引法でもいいし、取引の年間総額の制限でもいい。そうすると、市場原理とは違ったレベルで、政府は市場に影響を及ぼすことになり、市場が個と個の取引の場である以上、間接的に個の自由に影響を及ぼし、これが「個は自由」という考え方に反するわけだ1。
話をChikirinさんに戻そう。
彼女は確かに一見社会派だ。でもこれは、彼女が弱者の見方であるからではなく、日本という社会が面白いほどに反リバタリアンだからだ。どこにいっても足並みを揃えることを強制されるかわりに、国や会社が面倒を見る(あるいは少なくとも見てきた)日本は、資本主義の着ぐるみを着た社会主義国家だ。彼女が必ずしも社会的弱者の見方ではないのは、世界中に拡大している反富裕層デモに対する批判を見ればわかる。グローバル化する市場原理によって淘汰されていく人たちが、今さら都合良く国内に視野を狭め、怒り心頭デモに参加するのはナンセンスだという彼女の意見は、教科書的なリバタリアンのものの見方だ。
先に「おちゃらけて」もいないと書いたが、唯一おちゃらけているのが文体だ。口語体だが物腰が低く、断定するのではなく問いかける文章は、人々をホッとさせる。でも実際に書いていることは至って真面目な話で、思考プロセスのアウトプットとしては、酩酊の新聞記者が書いたコラムなんかより何千倍も洗練されている。これは憶測にしか過ぎないが、彼女はわざと「おちゃらけ」たスタイルを通すことで、鋭い論点の刄をまるめようとしているのではないだろうか。お決まりの「そんじゃーね」も劇薬を包む甘いコーティングと見える。
ChikirinさんはTwitterでも@insideCHIKIRINで呟いている。insideCHIKIRIN—「Chikirinの中身」ということだが、それは「おちゃらけ社会派」ではなく「鋭いリバタリアン」なんじゃあなかろうか。
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ぼくは昔トレーダーをしていたのだが、金融で働く人はリバタリアンが多い。アホがばらまく金を吸い上げる商売なので、政府に介入されると儲けが減って分が悪いということなのかもしれない。
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