2011-10-17
関西弁と標準語。英語と日本語。
この前、こちらにいる日本人6人と会ってわいわいすることがあった。わいわいという言葉は間違っているかもしれない。一人は土曜日にも関わらず仕事をしており、ぼくはiPhone用のKindleで本を読んでおり、一人はブログを書いていた。残りの3人が何をしていたのか覚えていないから、多分そこまでは盛り上がっていなかったんだろう。でもちょっと面白いことに気がついたので、考えてみたい。
前出の6人のうち、2人は関西出身だ。もちろん彼らは関西弁と標準語のバイリンガルなのだが1、ぼくたち東京の人間と話す時はもちろん、彼らの間でも標準語を使って話している。不思議に思ったので聞いてみた。
「ねえ二人だけでも標準語なの?」
するとこう答えが返ってきた。
「最初会ったのが東京だし。最初会った時が標準語だから今さら...でも高校の友達とかは最初に会った時が関西弁だから、今会っても関西弁が出る。」
これまたお上手な標準語で。まあその時は、そんなものなのかあと思うに留まったのだが、帰宅後家でぼんやり彼の言葉を反芻していてふと気づいた。実はぼくもしょっちゅう似たような経験をするのだ。関西弁と標準語の代わりに、英語と日本語で。
類は友を呼ぶというが、ぼくの周りには、日本語も英語も話す人が何人かいる。どちらの言語も流暢に話す人たちだ2。でも彼らと話す時には、必ずどちらか一方の言語が主流になる。さっきの二人が、同じ関西人同士なのに標準語で会話するように、日本人同士なのに会話はほとんど英語という友人も数人いる。もちろん周りにいる人には合わせる。例えばデフォルトが日本語でも、一緒にいる他の人たちが日本語がわからなかったら英語にシフトするし、逆もまた真なりだ。でも、そうしてデフォルトの言語選択に逆らって会話をすると、途端にぎこちなくなるので、二人だけになったら再びデフォルト言語に切り替えることになる。また、先ほどの関西人の友人が言っていたように、一度英語か日本語に決まってしまうと、大抵そのまんまだ。
ここで興味深いのは
- 例え双方が二つ以上の言語で同等に堪能であっても、一つの言語に落ち着くこと
- 一度言語が決まると変えるのが難しいということ
だ。どうしてこうなるのか少し考えてみた。
まず1.は「話す言語ごとに、その言語に対応した自我があるから」ではなかろうか。英語を話している時と日本語を話している時では、ぼくの性格は大きく異なると思う。正直、日本語を話している時のほうが、英語を話している時よりもアホに聞こえているんじゃないかと自分では思う。もしこの「自我と言語の呼応」仮説が正しいとするなら、二人の間での会話が、一つの言語に落ち着くのもうなずける。なぜなら二つ以上の言語を使って会話することは、二つ以上の自我を切り替えながら話すことで、そんなあえて自分を混乱させるようなことは、みんな本能的に回避するのだろう。
2.に関しては、「人間は基本的にやり直すのが怖いしメンドクサイから」ではなかろうか。もし1.が正しいとして、言語ごとに違った自我があるとすれば、途中で二人の間での言語を変えることは、今まで二人の間で築いてきたコミュニケーションの歴史を一度やり直すようなものだ。さらに悲観的に考えれば、日本語だったら上手くいっていた友人関係も、英語にした途端、「英語を話す」お互いの性格が上手く噛み合わず、友情にヒビが入るかもしれない。もう既に上手くいっているものをぶち壊すことは、余程の天才(あるいはキチガイ)でなければ躊躇するものだ。
だからどうしたという話なのだが、今までぼんやり感じていたことがすっきりした気がしたので、書いてみた次第。需要がなさそうな話でかたじけない。