2011-10-18
花とアリスとポストモダニズム
注意書き:ぼくは映画批評もポストモダニズムも全くの素人です。これは完全なおふざけです。怒らないで。ちなみに映画を観てなくても楽しめると思います。逆に、映画そのものが好きでも、楽しめないかもしれません。あと基本的にネタバレです。
知り合いの家で岩井俊二の「花とアリス」を観た。
岩井作品は、大学の時に「リリィ・シュシュのすべて」を観て気に入っていたし、蒼井優はなかなか良い女優だと評価しているので、彼女のルーツを探ることも兼ねて観ることにした。「花とアリス」は蒼井優が初主演した映画でもあるのだ。
映画を見始めてまず気がつくのは、映像美だ。岩井俊二というのはキレイな映像を撮るのが上手い。ぶっちゃけこの映画は、5分から10分くらいのキレイな映像を繋ぎ合わせただけなのだが、一つ一つがとても美しいので、しょうもないストーリーにも関わらずなんとか最後まで観れてしまう。もし「花とアリス」が本だったとしたら、一遍の小説というよりは、詩集に近い気がする。例えば、序盤に花(鈴木杏)とアリス(蒼井優)が桜満開の中を歩くシーンがあるが、全くもってストーリーとは関係ない。でも淡いピンクの桜吹雪を背景に高校生の女の子が二人制服ではしゃぎまわるというシーンは、ロリコンとかそういうことを超えてキレイだ。後で出てくるバレエのシーンもそうだが、岩井俊二は多分あらかじめ撮りたいシーンがいくつも頭の中にあって、それを無理矢理繋ぎ合わせて映画にしたのが「花とアリス」じゃないんだろうか。
テーマから入るのではなく、断片的なアイデアを繋ぎ合わせて映画にするというのは、極めてポストモダンな手法と言っていい。ポストモダニズムとは元々自己同一性を全面に押し出してきたモダニズムに対する批判として始まったのだ。テーマや、こんしすたんすぃ1にこだわらず、むしろこだわってきたモダニズムのあり方を揶揄するのがポストモダニズムだ。落語にバレエ、藤子・F・不二雄に離婚、下着姿のオバハンに中国語と、ムチャクチャな絵の羅列にしか見えない「花とアリス」も、その荒唐無稽さをもって、一生懸命にストーリーを構築している他の映画を、間接的に批判しているのだ。
ムチャクチャな絵の羅列と書いたが、一つ一つの絵はよく作り込まれている。「ふじこ」などの駅名は完全な藤子・F・不二雄に対するオマージュだし、花が意中の男の子と待ち合わせるレストランがあるのだが、同じビルに入っているヘアサロンの名前がSalyuになっている。岩井作品に詳しい人ならわかるかもしれないが、Salyuは「リリィシュシュのすべて」でデビューした歌手だ。他にもデパートのトイレの汚物入れがなぜかピンク色だったりと、岩井俊二ならではのこだわりが一つ一つの絵に反映されている。全体的なつながりはすっ飛ばしても、細部へのこだわりを忘れないのがポストモダニズムの特徴である。こんなことを書くと何百万人はいるであろうハルキストにぶっ殺されそうだが、村上春樹の小説も実にこのパターンだ2。--普通の少年が、なぜか病的にサンドイッチとサラダを観察し、なぜかわからないうちに不思議な経験をし、どこかで女の子とセックスをし、そしてまたよくわからないうちに日常に戻る--これで村上作品の9割は説明できてしまう。大事なのはどうやってその過程を描写するかで、物語そのものに意味を求めてはいけないのだ。
村上春樹で思い出したが、ポストモダンの作品というのは、ちぐはぐなストーリーのくせにやたらと長い。この点でも、「花とアリス」は十分にポストモダニズムの手法を踏襲している。驚くなかれ、この映画は2時間15分ものの大作だ。余程ポストモダンな人か、岩井俊二か蒼井優の熱烈なファンでないと辛いだろう(ちなみにぼくは蒼井優のファンだ)。これは村上春樹も含めたポストモダンの小説全体に言えることだが、やたらと意味なく長いのだ。ぼくはポストモダニズムに対して悪い印象はないけれど、小説も映画もやたら長いのはやめてほしいと日頃から感じている。
ポストモダニズムのもう一つの特徴は、メタであることだ。メタというのはもともとギリシャ語の接頭語だが、まあカンタンに言えば「一歩外から見てみて、わけのわからないことを楽しむ」ってことだ。メタプログラミングと言えば、プログラムを生成するプログラムだし、形而上学は、英語ではメタフィジックスという。読者もいい感じに、わけがわからなくなってきたんじゃなかろうか。当然のことながら、筆者はなーんにも理解していない。理解することを諦めるのもポストモダニズムだ。
「花とアリス」も実にメタだ。作品中、花(鈴木杏)は、片思い中の先輩、宮本が、八百屋のシャッターに頭をぶつけたことをいいことに、「実は花のことが好きで告白した」という事実無根の話を信じ込ませることに成功する。だが、途中でボロが出そうになり、その時とっさに「アリスと以前に付き合っていた」というまたまたデタラメな話を吹き込む。映画の大部分は、宮本にこれらのホラ話を信じ込ませるべく、アリスと花が悪戦苦闘することに割かれるのだが、ここでの蒼井優の演技がまたメタなのである。蒼井優はアリスという人物を演じるだけではなく、「宮本と付き合っていた」という虚構のアリスを演じるアリスも演じているわけである。いい感じにメタじゃないっすか。
最後に、ポストモダニズムによく見られる傾向として、「終わり方が現実的」というものがある。これは言い換えれば全てが解決するハッピーエンドでも、全て駄目になってしまう悲劇でもないということだ。人生あざなえる縄のごとしというが、いいことばかりや悪いことばかり続くわけではない。そういう意味ではハッピーエンドも悲劇的結末も、現実的ではない。「花とアリス」は、この観点からも極めてポストモダンだと言っていい。アリスと花の嘘はばれ、花の恋は終わってしまうが、アリスと花の間の友情は固く結ばれたままだ。また、アリスの母は相変わらず男にだらしないが、オーディションで勇気を振り絞り、紙コップとガムテープでつくった即席シューズでバレエを踊ったアリスは、見事ファッション雑誌の表紙を飾ることになる。良いことがあったり悪いことがあったりするのが人生で、「花とアリス」は、この一点に関しては極めて現実的である。
以上ものすごいくだらない批評。一度、おふざけ映画批評というものをしてみたかったので、読んでくれた人には感謝したい。頼むから「お前はポストモダニズムも岩井俊二もわかっていない」といった類いの批判はやめてほしい。最初に断ったとおり、これは完全なジョーダンだ。