2012-08-10

話すように書いてはいけない

大学時代、学生がサボり過ぎるのを防止するためか、課題のエッセイの類いには必ずと言っていいほど最低何ページ/何単語といった制約がついていた。だがらといってより内容のあるものを書こうと動機づけられる学生は少数で、大半の生徒は、薄っぺらいままの内容を、金箔のように引き延ばして規定のページ数や単語数に到達させようとしていた。すると文章は冗長になり、論点は不明確になり、そうしてたるんだ文章を、むやみやたらに難しい言葉でドーピングするという悪循環を経て生まれるのが、95%の学生が提出する、読みづらいのに中身のないエッセイだった。1

そんなウンコエッセイに辟易としていた西洋古典学の講師の人が、度々こうアドバイスをしていた。

「あたかも話すかのように書け」

確かに人は話す時に、やたら難解な言葉を多用したり、回りくどい言い方をあえてはしない。なるほど、これはいいアドバイスだ。やがて大学を卒業し、規定ページ数・文字数の呪縛から解き放たれた僕は、彼の言う「話すように書け」をどんどん実践するように心がけた。文章は徐々にシンプルになり、自分の中では、比較的ましな文章を書くようになったと自負していた。

しかし先日、「あたかも話すかのように書け」というのは、必ずしも正しくないのではないかと自問する機会に恵まれた。敬愛する作家David Foster Wallaceのインタビュー集を読んでいた時のことだ。"Communicative writing"と"expressive writing"という言葉に出くわした。大学で文章の書き方を教えていたWallaceが、なぜ学部生を教えるのが難しいかを、こう説明している。

...there’s this fundamental difference that comes up in freshman comp and haunts you all the way through teaching undergrads: there is a fundamental difference between expressive writing and communicative writing. One of the biggest problems in terms of learning to write, or teaching anybody to write, is getting it in your nerve endings that the reader cannot read your mind. That what you say isn’t interesting simply because you, yourself, say it. Whether that translates to a feeling of obligation to the reader I don’t know, but we’ve all probably sat next to people at dinner or on public transport who are producing communication signals but it’s not communicative expression. It’s expressive expression, right? And actually it’s in conversation that you can feel most vividly how alienating and unpleasant it is to feel as if someone is going through all the motions of communicating with you but in actual fact you don’t even need to be there at all. (page 113)

学部生を教えるうえで必ず出くわす問題なんですが。表現としての文章と、コミュニケーションとしての文章は根本的に違うんです。文章を書く上での大きな問題の一つ、それは「読み手は自分の頭の中を覗けない」ということを頭に叩き込むことです。自分が話しているからという理由だけで、それを相手が面白いと思うわけなどない。これが読者に対する義務ってやつかどうかわからないですが、ディナーの席や、公共交通機関で、コミュニケーション信号を飛ばしていても、それが表現として伝えられてない人と席を並べた経験が、誰しもあるわけです。この伝わってない感じが、表現のための表現です。賞味な話、この不和というか疎外感が一番顕著に感じられるのが、会話の中なんですよ。伝えるふりはしているんだけど実際のところ、話し相手はその場にいなくてもいいってやつです。

Wallaceの言葉は禅問答のように聞こえるかもしれない。だが、彼が言わんとしていることはシンプルかつ実践的で、「相手に伝わってこそ文章には意味がある」ということだ。そんなの当たり前かと思うかもしれないが、「あたかも話すように書け」という先ほどのアドバイスには、根本的に、「誰に」話すのか、「どうやったらその『読者』に伝えられる」のかという観点が欠けている。いや、正確には、明示的に書かれていないので、ぼくは理解していなかったのだ。

読者に伝えること—コミュニケーションをはかること—を念頭に置いた時、その他のすべての問題点は二次的なものになる。難しい言葉を使うのか、平易な表現を心がけるのか。一人称で書くのか三人称で書くのか。口語か文語か。コーヒーテーブルで一対一で話すように書くのか、演説するように書くのか。すべてはどうやったら相手とのコミュニケーションをはかれるのかという最終ゴールのための手段でしかないのだ。

以前友人が、「文章を書くことの意味は、自分の頭の中にあることを、世の中の人に理解してもらうこと」と言っていたが、まさにその通りなのである。

この文章が、あんまり"expressive writing"の方に寄っていないことを願って投稿する。



  1. ぼく自身も、そんなウンコエッセーを度々書いた。そしてその過程で、日常生活でまったく必要のない英単語も数多く身につけた。

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