2014-08-10
「英語」でくくる危うさ:いい加減な米英比較はやめませう
なんか米語と英語の比較考察のブログがバズっている。
たどたどしい英語しか話せないと前置きしておきながら、「長い文章で、きちんと全容を伝える」のが英語で、 「シンプルに、結論を出してスピーディな判断を促す」のが米語だと言い切るのは、ジャパニーズの十八番である「控えめながら、思い込み先行の上から目線」の最たるものである。
日本人は、こと英語となると、有り余るコンプレックスに押し潰されるのか、海外経験のある同朋の嘯く不確かな話を鵜呑みにしやすい。先に引用した方の言っていることも、筆者が半生を過ごしたアメリカに言及している部分は些かオカシイので、訂正したいと思う。イギリスに関する部分に関しては、ぼくは直接経験がないので、触れるつもりはない。強いて言えば、Kazuo Ishiguroの"Never Let Me Go"は好きである、くらいだろうか。
以下、オカシイと思うところを引用していく。もう一度断っておくが、筆者はアメリカ人なので、母国に対していささか甘いかもしれない。
アメリカ英語を話す人間からすれば、英語はコミュニケーションツール。多国籍の人間と常に話し合うためには、伝わることが一番大事です。
そんなことはない。今でこそ、アメリカ英語を話す非アメリカ人も増えたが、それでもアメリカ英語人口のほとんどは、我らアメリカ人である。我々は多国籍の人間と常に話し合おうとなど、これっぽっちも思っていない。恥ずかしながら、アジア人やヨーロッパ人の訛りや誤用を平気でバカにするし、英国と袂を分かって250年足らずのうちに、自分たちだけの言い回しを腐るほど生み出し、それを毎日使っている。
確かに英語はグローバル言語である。ただ、アメリカ人はそうなったことを喜んでいる(あるいは当然だと思っている)だけであって、英語のグローバル化に貢献しようと思っている人なぞ、人口の0.01%もいないだろう。「伝わることが一番大事」という部分は合っているが、それは崇高なグローバルな観点からではなく、結婚から雇用、ビジネスまで、すべて明示的ルールのもとで争い続けるデモクラシヨクナイに於いて、意見の明示化は死活問題だからだ。
たとえば、イギリスでは 少数の「0.8」をnought point eight と読みます。カタカナにすると ノー・ポイント・エイト。ゼロ=ノー、なんです。これが全く通じない。zero point eight でないと通じず、直後に上司に呼ばれて「その変な英語を”グローバル”に合わせろ」と言われました。
アメリカ人は、悪気はないけれども、自分たちのやり方がベストだと思っている場合が多い。なので一の位をzeroと言うのがグローバルスタンダードだぜぃ、と言い切る姿は、容易に想像できる。ちなみにアメリカではnoughtじゃなくてnaughtなので、小生、恥ずかしながら、この方の文章を最初に読んだ時に、「なんだこいつ、naughtもまともに綴れないで偉そうなこと言ってんじゃねーよw」と思ってしまった。いやはやアメリカ人の鑑である。
このnoughtという単語、小数点の表記くらいにしか使わない極めてマニアックな英単語です。この極めてマニアックな英単語をさらりと使ってプレゼンするという美しさがイギリスでは重宝されます。アメリカでは逆です。「なんで通じる言語を使わないの」となります。
これはいくらなんでも言い過ぎである。ぼくは無駄に高学歴なので、友人にはアメリカ人のエリートがたくさんいる。彼らは普通に難しい(というかより適切な言葉)をちゃんと使うし、自分が話をしたことがある英国のエリートと比べても、言い回しの差異はあれど、語彙のレンジが大きくずれているという印象はない。てかnaught/noughtのどこがマニアックやねん。
確かに我らアメリカ人は厚顔無恥かつ我田引水で、地球のジャイアンだろう。が、アメリカのエリートを見縊ってもらっては困る。ガンダムではないが、グフくらいではある。
文学の流れなどが良い例かもしれない。確かに20世紀の前半くらいまでは、英文学と比べ、米文学はスタイルの斬新さや、手法の洗練具合という点で劣る点があったかもしれない。WoolfとSteinbeckなどが良い例である(双方とも素晴らしい作家である)。ただ、戦後、特にPyncheon、RothあたりからDavid Foster Wallaceの米文学は、その斬新さと意味プー度合に於いては、現代の英文学(って誰だろなーRushdie・Ishiguroとかかね)に負けないくらい、こじらせている感がある。
ちなみに引用元の最後の英語の例文なんだが、アメリカ人のうっすいオブラートに包んでコメントすると、英作文能力に関して、まだまだ伸びしろがあられるよう見受けられる。
いろいろとツッコんだが、筆者が書きたいことは何となくわかる。確かにアメリカ人は結論を急ぐし、何よりもコミュニケーションが明確であることを、特にビジネスの場面では大事にする。英国で教育を受けたブログ主の方が、アメリカの会社での報告書の書き方に戸惑うというのは想像にかたくない。筆者もこの数年日本の方とビジネスをするようになり、いかに我々アメリカ人が結論ファーストでオブラートのオの字も知らないか、痛感している。
ただ、そういう文化的な違いが、修辞学的判断、ましてや相対的な語彙の大きさに影響しているというのは、言い過ぎであろう。サピア=ウォーフも、ジョージ・レイコフもびっくりである。作者の方が、英国風の散文レポートを米国風の三行ラップに直す傍ら、気晴らしに書いたブログエントリであるということを重々承知しつつ、横やりを入れてしまった次第である。