2013-12-30

postscript: 全日本スケート

ソチオリンピック・世界選手権に向けたフィギュアスケート男子の最終選考に関する文章に対して、いろいろとフィードバックを貰った。書いてから一週間が経ち、ぼくも少し考える時間があったので、自省の意味も込めて、注釈を加えたい。

一番ツッコまれたのが、「今回の選考は、議論の余地はあれど、前もって定められた基準に沿った妥当なものだった。むしろ感情に流されているのは筆者の方ではないか」というものだ。

これは結構的を射ていて、頭が冷えていないうちに筆をとってしまった感は否めない。第三者の目を意識的に持つことは、編集者不在の個人メディアで一番気をつけなくてはいけないことなのだが、今回はそれができていなかった。深く反省している。

よくよく考えてみると(というか読者に指摘されて気づいたことだが)、筆者が疑問視しているのは、「高橋さんを選んだ」という今回の決定そのものではなく、「いろいろと選考基準は設けているが、最終的には密室のミーティングで代表を選ぶ」プロセスの方なのだ。そして今回の「小塚か高橋か」といった決定のように、どっちに転んでも不平不満が噴出する場面では、この不透明なプロセスが持つ問題が如実に表面化する。

不透明なプロセス—そんなものは、たくさんある。2006年トリノオリンピックの安藤美姫さんの選考は物議を醸したし、スポーツは違えど、2008年北京オリンピックの谷亮子さんの出場も、多方面から疑問視された。その類いのニュースを聞く度に、ぼくは思うのだ。選考委員会って本当に必要なんですか、と。

もし仮に、全日本スケートの1〜3位を五輪の代表に選出したら。そんな一発勝負では実力がわからない、国際試合での成績も加味するべきだというなら、複数の大会における成績を、明示的な公式に代入し、その1〜3位を選べばいい。大事なのは、そこに全員が前もって認知している公式があり、それに準じて決定することで、疑念と邪推の余地をなくすことだ。

もちろん、スケートというスポーツに限って言えば、あくまでジャッジが点数をつけるスポーツなので、恣意的な評価が必ずしもなくなるとは言えない。6.0満点の相対評価システムを廃止し、現行の得点システムに移行したのも、ソルトレイク五輪での審判員の不適切な行為が原因だ。それでも、選考委員会を廃止すれば、恣意的、不公平とも解釈できる行為は、個々の競技会に局所化されることとなり、全体的にはより公平で透明な選考プロセスになると読んでいる。

最後に付け加えておきたいのは、ぼくは何の論拠もなく日本スケート連盟の不透明さを叱責しているわけではない。日本スケート連盟には、それ相応の黒歴史があり、例えば、2006年、元会長の久永勝一郎さん(2004年に辞任)は不正経理を理由に逮捕されている。当時その不正経理の恩恵をあずかり、自宅にガサが入った城田憲子元理事も、一旦は引責辞任をしたものの、今ではスケート連盟に復帰していたりする。2度あることは3度あるとは言わないが、そんな過去がある連盟だからこそ、より透明でわかりやすい選考プロセスを打ち出してもらいたいと願っている。

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