2021-03-05

あなたは、彼女に10億円の小切手を切れるだろうか?

最近、結果の平等と、過程の平等について考えている。

100万円を、10人に配るとしよう。もしこの10人について何も知らなければ、1人あたり10万円ずつ配るのはとても平等に見える。これは、全員が同じ金額をもらうという「結果」の観点からも、各人の懐事情を気にしないという「過程」の観点からもだ。この考え方は結構普遍的なもので、あらゆるゲームの出発点として妥当とされているものだ。桃鉄で開始時の所持金がプレイヤーによって異なったり、得点系スポーツの開始スコアが0:0でなかったとしたら、不平等だと感じる人がほとんどだろう。

ここで、この10人の経済状況が、著しく違うことがわかったらどうだろうか?仮に、10人のうち、9人の総資産が1万円で、1人の総資産が1億円だったとしよう。この場合、先ほどの1人10万円ずつというのは、結果の平等という観点からは、最適ではないように見える。「1億円持っている人に10万円を上げる必要はない。むしろ9人に11万円ずつ配り、余った1万円を9人の中から抽選で1人にあげる方が、平等だ」と容易に考えられる。この場合、総資産は、12万円が8人、13万円が1人、1億円が1人となる。最も貧しい人は12倍豊かになり、貧富差は、1万円:1億円≒1:10,000から12万円:1億円≒1:833に縮まっている。

だが、10人に10万円ずつ配るという方法も、そこまで悪くはなく思える。なぜなら、その場合、11万円が9人、1億10万円が1人で、貧富差は1:909だ。先ほどの1:833に比べればやや劣るが、スタート地点の1:10,000と比べれば、それでもすごい進歩だ。さらに、億り人にびた一文あげなかった先程の分配法と違い、配り方に関しても平等だと胸を張って言える。「過程」と「結果」の双方の観点からどちらの分配方法がより平等か、なかなか甲乙つけがたい。

こいつ何を言っているんだと思うかもしれないが、もうひとつだけ思考実験に付き合ってほしい。

仮に、10人中億り人が9人いて、1人だけ1万円しか持ってなかったとしよう。この場合、どうやって100万円を配るのが平等だろうか。10人に10万円ずつ配るのは、「過程」の観点からは平等だが、「結果」の平等からはほど遠い。1億10万円が9人に11万円が1人…全くもって趣味の悪いジョークにすら思える。「結果」の平等という観点からすれば、総資産1万円の人に、100万円全部あげるべきだろう。そうだとしても、101万円の所持者と億り人たちでは、総資産の差は実に1:99である。

上のふたつの例で示したかったこと、それは原状によって、「過程」の平等と「結果」の平等の持つ意味が、ほぼ同じにもなりえるし、大きく乖離する場合もあるということだ。さらに言えば、圧倒的不利な状況に置かれている人が少ないほど、そのふたつの意味は乖離する。この考え方は、いわゆるダイバーシティの話を考える上で、見落とされがちであると同時に、最も議論されるべき話だと感じる。

最近だと、様々な会社や組織が、意識的にダイバーシティ施策を進めており、定量的ゴールを設けるようになっている。JOCの女性理事40%以上という話もそうだし、ベンチャーキャピタルの世界での、投資先〇〇割を女性起業家にという話もそうだ。多民族国家のアメリカでは、「女性」の代わりに人種やジェンダーで閾値を設けるところも少なくない。

これらの施策に反対する人たちは一定数いる。そういう人たちの反対論にはいくつかのパターンがあるが、多くの場合、特に非過激派の場合、「過程」の平等を「結果」の平等よりも重んじる価値観から来る。選考プロセスに、ジェンダーや人種といった属性を加味することは、「過程」の平等さを欠くのではないかと。この論点はたしかに一理ある。男性だから、女性だから、若いから、年をとっているから、ゲイだから、シスだから、クイアだから、金持ちだから、貧乏だからといって、プロセスが変わるのはおかしいではないかと。女性を〇〇人雇う、経営陣を〇〇%性的マイノリティにする、みたいのは、「結果」の平等の押し売りなのではないかと。

ここで、先程のふたつの総資産の原状の話に戻る。圧倒的不利な状況に置かれている人が少ないほど、「結果」と「過程」の平等は乖離する、という話だ。昨今のダイバーシティの話の多くは、先の話でいう後者、つまり圧倒的不利な状況に置かれている人が少ない場合の話が多い。これは仕事の世界での女性の立場もそうだし、一般社会生活における障がい者や性的マイノリティの場合もそうだろう。結果として、「結果」の平等を主張する人たちと、「過程」の平等を主張する人たちの話は、哀しいほど噛み合わない。「過程」を平等にしたところで、「結果」は平等になるとは限らないからだ。

無論、実際のジェンダーをめぐる平等性が、先の記述よりも遥かに複雑なものであることは、重々承知している。むしろ、僕の哀れなほど簡略化されたモデルですら、これだけ難しい問題なのだ。ましてやリアルな社会に於いては推して知るべしである。

ここまで「過程」と「結果」にかぎカッコをつけてきたには理由がある。何が結果であり、何が過程なのかについて、ダイバーシティ施策賛成派と反対派の間で、合意が得られていないからだ。これが問題を複雑化する。

例えば、先のJOCの女性理事40%以上という話の場合、女性理事を40%にすることは、「過程」だろうか、それとも「結果」だろうか?

スポーツの世界でのさらなる女性の活躍を促すためにロールモデルを増やす、という観点からは「過程」と言える。世の女性たちが、JOCの要職に就く女性たちをみて、社会の変化を感じ、自身たちも勇気づけられ、結果として男性偏重の流れを変えられるという考え方だ。一方、これを「結果」としてみることも難しくはない。JOCの役員は、誰がどう考えても選ばれた人しかなれないような要職で、それをほぼ半数が女性が占めるという「結果」だという見方。あくまで40%で50%ではないので、厳密には平等ではないのだが、主張はわからないでもない。

ただし、この40%の女性役員を結果とみるか、過程とみるかで、その後の議論の展開は変わってくる。仮に2人の結果平等主義者がいたとする。40%の女性役員を「結果」としてみる人は、「少なくともJOCという組織の文脈では平等となりました。めでたしめでたし」と言うかもしれない。一方、これをあくまで「過程」としてみる人は、「いや、これは女性があらゆる社会的場面で正当に評価されるための過程に過ぎません。結果は別のところにあり、それは…」と議論を続けるだろう。似たような道徳的価値観を持っていたとしても、物事の捉え方が違えば、結論も違う。そして実世界では、物事の捉え方はもちろんのこと、道徳的価値観も十人十色であり、もうそれは議論のスタート地点に立つことすらすごいエネルギーを要するのだ。

僕もここまで書いてだいぶんエネルギーを消耗したのだが、最後にもう一度だけ、似たような思考実験に戻りたい。

ただし今度は、あなたは投資家で、目の前に9人の男性起業家と、1人の女性起業家がいるとする。10人とも、資金調達真っ只中であり、あなた観点だと、全員とも投資先として同じくらいのリターンを得られる可能性を持っているとしよう。あなたの手元には10億円の軍資金がある。リスク分散的には、全員に1億ずつ投資するのが、賢い投資だろう。

ただここで、新たな事実が発覚する。9人の男性起業家はすでに10億円ずつ調達済みだが、10人目の女性はまだ1円たりとも調達できてないというのだ。

その時、あなたは、彼女に10億円の小切手を切れるだろうか?

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