2013-12-02

エブリデイP vs. NP、または、より幸せに優しく生きるフレームワーク

2013年も師走、そろそろ一年を振り返るモードになりつつある。今年はとにかく仕事が忙しかったが、小さい会社ということで、色々と経験させてもらった。この器用貧乏を雇ってくれている会社に感謝である。

今日は、ちょっとした一年の総括という感じで、ぼくが今年ずっと考えてきたことについて説明したい。と書くとかっこいいが、正直なところを言うと、平行して考えてきたことが幾つかあって、つい最近になって、その考えごとたちを纏める方法を見つけたというだけで、もし今の結論に3か月前にたどり着いていたら、この最初の二段落は、全く別のものだっただろう1

こっからが本題ね。たぶん長くなるから目次。

  1. P vs. NPとは何か(は、あまり説明しない)
  2. ファボる、いいね!る、はてブる
  3. …そしてその一般化としての読む vs. 書く
  4. マネージメントとリーダーシップ
  5. コンサルタント vs. 起業家
  6. 意識が高い人たち
  7. 結論に代えて:相手と自分

1. P vs. NPとは何か(は、あまり説明しない)

コンピューターサイエンスを少し勉強すると、「P vs. NP」という概念に遭遇する。これは、世の中の計算問題—例えば、A地点からB地点に行くのに最短距離を算出するとか—を分類するための枠組みのコアとなる概念で、一般向けかつ技術的な説明は、このブログ記事などを参照するとよい。本文に於いては、あくまでアナロジー的な用途の域を超えないので、以下、だいぶ大まかな定義を与える2

  • quipped的P(以下、qP)とは、「楽に正解が出せる問題」のことを指す。「楽に(for 誰?)」とか、「正解」だとか、主観がだいぶ入ってしまうのだが、これから先幾つか例を出していく中で、帰納的に納得してもらえればと思う。
  • quipped的NP(以下、qNP)とは、「出た回答が正解かどうか判断するのは楽だが、正解を出すのは超大変な問題」のことを指す。「超大変」とか、これも大分主観的である。

抽象的な定義を書き下したところで、読者にはイマイチ伝わらないかもしれないので、次のセクションから、具体例を挙げて説明していく3

2. ファボる、いいね!る、はてブる

身近なqPの例が、ソーシャルサービスに於けるワンクリックな意思表示だろう。ツイッターで言えば、「リツイート」や「ファボる」こと、フェイスブックで言えば「いいね!」や「シェア」、はてなブックマークだったら「はてブる」ことが、それに相当する。これらはどれも「与えられたコンテンツに対して、そのコンテンツの善し悪しを判断する」行為であり、どれも簡単に、気軽に、楽にできる行為である。言い換えれば、正解(=与えられたコンテンツに対して好き嫌いの意思表示をすること)は比較的たやすいということだ。

それに比べ、(たくさん)リツイートされたり、いいね!されたり、ホッテントリになったりするコンテンツを作るのは難しい。筆者もブログを書いて数年経つが、一生懸命書いたコンテンツが全く流行らないなんてザラにある。このことから、「流行るコンテンツをつくること」はqNPなのではないかという仮説を導きだすことができる。つまり…

  • 他人のツイートを面白いと判断してファボるのは楽だが、他人にファボられるツイートを書くことは難しい
  • 友達がFBにあげた写真をいいね!するのは楽だが、友達からいいね!されまくる写真は(結婚式でもしない限り)難しい
  • はてブするのは楽だが、はてブるコンテンツを作るのは、身も蓋もないことを言う覚悟や、炎上マーケに走らないと難しい

というわけだ。そんなの当たり前じゃんというツッコミが聞こえてくるが、このことを少し一般化して考えてみたい。

3. …そしてその一般化としての読む vs. 書く

文章を書くというのは、かなり体力と根気がいる作業である。自分の頭の中では自明である物事も、それを文章にして伝えようとすると、様々な仮定を書き起こしたり、想定される反論や指摘に言及する必要がある。そうやって話の内容を丁寧に肉付けできたとしても、まだまだ終わりではない。想定した読者層に適切な文体・表現・構成を綿密に考慮しなくては、情報が溢れかえる昨今、読んですらもらえないだろう。

その一方、読むというのは比較的楽な行為である。これは本を読む人口と本を書く人口の比率を見れば明らかだ。筆者だって年に数十冊は本を読むが、このブログのエントリーを全て寄せ集めたところで4、文庫本一冊強にしかならないだろう5

そう、読むことはqPだが、書くことはqNPなのだ。

最近このことを強く感じたのが、@chibicode書いた文章を読んだ時だ。もちろん@chibicodeの文章が完璧かと言われれば、そんなことはない。「少し論理が飛躍しすぎなのは自覚している」というポストモダンなメタ言及や、「『若者は海外に出るべき』とは言えないが、『あなたは海外に出るべき』とならいえる」という、individualism v. collectivismっぽい現代西洋哲学的な言葉あそび自体、本人が揶揄している「綺麗なことを言うと、矛盾に気づきにくくなる」ことの一例となってしまっていたりする。

ただ、そういった批判の目をとじて彼の文章を読むと、そこには一考にあたいする様々なアイデアが、ナイーブとすらいえる繊細さと、切実なまでものやさしさの間に介在している。そして何より、彼は自分の考えを書いたのだ。問題意識を抱える人間はごまんといるが、それを明文化して、さらに共有し、共感を得られるところまで持っていける人がどれだけいるだろうか。

読むことはqPだが、書くことはqNPなのだ。他の人が書いたものを読んで感想を述べることは、感想を述べてもらえる文章を書く何倍もラクなのである。

ぼく自身、すぐ他人のアウトプットの粗を探してしまう方である。ただ最近になって、表立った批判をする前に、「この文章は何が言いたいのだろうか」と真摯に読み解こうと努めている。そのくらいの注意を払うことは、qPなことしかしていない人間が、qNPなことに挑戦している人間に払うべき最低限の敬意だと信じているからだ。

4. マネージメントとリーダーシップ

筆者が今年の初頭に書いて流行ったエッセーで、"それがリーダーってもんだよ"というものがある6。一言で言えば「チームを信頼して仕事を任せられるのが良いリーダー」という話なのだが、最近それに加え、「良いリーダー及びマネージメントには、qPとqNPの判別は必要不可欠」だと思うようになった。

ここでqP vs. qNPの対象となるのは、仕事のことで、qPな仕事というのは所謂ルーチンワーク、qNPな仕事というのは難しい仕事のことを指す。そして、自分の経験を鑑みるに、マネジメントがうまくいかなくなる場合は、大抵上司と部下、チームリーダーとチームメンバーの間で、「どの仕事がqPで、どの仕事がqNPなのか」の合意がとれてないことに起因することが多い。

たとえ話をしよう。

Aさんはプログラマーで、Bさんはプロジェクトマネージャーである。Bさんの仕事は、プログラマーとビジネス側の人間の間に立ち、プロジェクトが予定通りに遂行されるよう働きかけることだ。ただ、Bさんはプログラミング経験がないため、どの機能の実装が簡単で、どれが難しいかはイマイチわからないのだが、マーケの人から「あの機能はいつできるの?あれがあるとPR打てるんだよねー」と持ち掛けられた時に、咄嗟に「2週間くらいじゃないですかね」と答えてしまう。

こっから悲劇的な喜劇がはじまる。

—ねーあの機能、あと2週間くらいあれば作れるよね
—え、2週間っすか
—そうだよ。だってボタン増やすだけじゃん
—いや、UI的にはそうですけど。あれ、実は結構重い処理が後ろで走るんですよね。ユーザーに見せるとなるとバックエンドのスケーラビリティとかいろいろ考えなくちゃいけないですし…
—え、じゃあ4週間とか?
—いや、少なくとも3か月はかかるかなと…
—3か月!?
—はい…すんませんが
—それはダメだ!もうマーケに2週間って言ってしまった。なんとか調整するから4週間で!
—それは絶対無理っす
—お前やる気あんのか!?
—はっ?
—どうせ多めに見積もってんだろうがよ!いい加減にしろよな!
—てめえこそバックエンドの実装も知らねえのにテキトーに見積もってんじゃねえよ、このプロブレマティックマネージャーが!
—お前こそコードしか書けねえだろ、クソッたれが!
—お前はコードすら書けねえだろ、ウンコ!
—お前こそウンコ!
—ウンコ!
—ウンコ!
7

こういう問題が発生するのは、新機能の実装が簡単である、つまりAさんにとってqPな仕事だと、Bさんが思い込んだからだ。そして、2人の会話が罵りあいになっていくのは、お互いの仕事(Aさんはコードを書くという仕事、Bさんはプログラマーとビジネス側の要求の調整とすり合わせという仕事)が、どれだけqNPかということを理解しあえていないからだ。

上の例は、役職が違う同僚の間でのqP v. qNPにまつわる誤解だが、同じチーム内でも、同じような問題が起こりえる。ボスが簡単だと思っている仕事が、下っ端にとっては大変だったり(いわゆる「偉い人にはそれがわからんのです」現象)、上司と部下の間でどの仕事が重要か8キチンと確認できていなかったりすると、「あいつは仕事ができない」「ボスは俺の仕事を認めてくれない」といった風に、後々トラブルの種となる。

リーダーという言葉には、とにかく人が飛びつく。そして、古今東西のカリスマ的なリーダーについて学ぶたびに、リーダーシップを発揮するというのは特殊能力にすら見えてくる。が、仕事に関する目線あわせ、そしてそれを可能にする双方向のきちんとしたコミュニケーションがきちんとできていれば、別にカリスマがない人でも効果的なリーダーおよびマネージャーになれるし、逆にそれができない人は、どんなにスター性があろうとも、上質なリーダーやマネージャーにはなれないだろう。

良いリーダーというのは、立場と役職が異なれば価値観が違うということを深く理解していて、それをうまく利用できる人だと思っている。

5. コンサルタント vs. 起業家

立場と役職の差異という話の延長線上で、コンサルタント vs. 起業家という話をしたい。

コンサルタント、特に戦略コンサルタントと起業家というのは、面白いほど相容れない存在である。元・現コンサルの人たちと話をすると、いかに事業会社が非効率でバカか説明してくれる。ある人に至っては、絶対に自分は事業会社では働けないとまで断言するので、理由を聞いたところ、「あんなバカばっかりの環境で仕事なんかできませんよ」という答えが返ってきて、事業会社で働いている身としては、申し訳ない気すらしたことがある。

確かにコンサルタント、特にMcKinseyとかBCGの人たちは、話をするたびに頭がいいなあと思う。何の話をするにしても論理的だし、知らない分野の話でも、「一を聞いて十を知る」を目の前でやってのけるので、いつも感心するのだ。

が、「コンサルの人ってすごいよね」みたいな話を起業している人にすると、決まって訝しがる。「でもあいつら自分で何もやらないじゃん」と。「でも豊富なアイデアと知見を提案してくれるじゃないですか」と訊くと「って言うけどさ、大体提案されることって、ぶっちゃけ自分たちもわかってたけど、内部コンセンサスが取れてないとかで進んでなかったアイデアとかなんだよね。ほんとに画期的なことを気づかされたって経験はないね」と、すげない反応が多い。

これは、元コンサルの起業家の人も異口同音である。元McKのパートナーで、DeNAの共同創業者である南場智子さんの言葉を少し引用しよう

中途でマッキンゼーなどから採ってはいますが、それはそうした人材が流動性が高いためです。コンサルタントでの経験はハンディキャップになることが多い。出来るだけ実業の世界に早めに入った方がいい。

コンサルティングと実業は真逆で、言うのとやるのは全く違います。やる方がよっぽど考えないといけない。次元の違う思考力が求められる。 そうした観点から言えば、なるべくなら新卒で入社してほしいと思います。

…だそうだ。彼女の意見を金科玉条のごとく振りかざすつもりはない。ただ、コンサルという仕事が、事業の改善や方向性、戦略を提案する「まで」の仕事であって、実際にそれをやりきるところはクライアントにかかっているというのは確かにそうだ。

でも待てよ。そうだったらコンサルと事業会社というのは、仕事の棲み分けがきちんとできているではないか。なぜここまでお互いを尊重しあえないのだろうか。

その本質的な理由9は、コンサルと事業会社の人間(特に起業家)の間で、「価値がある仕事とは何か」という点で意識が大きく違うからだと睨んでいる。

起業家にしてもコンサルタントにしても、出来る人であればあるほど、バリューを出すことに執着する。ただ、コンサルタントが「アイデア」そのものに重きを置くのに対して、起業家は、アイデアを「実行すること」を重んじる傾向がある。南場さんの言う「コンサルティングと実業は真逆で、言うのとやるのは全く違います」という発言は、この相違を端的に言い表している。起業家がよく口にする「アイデアは安い、実行力がカギ(Ideas are cheap. Execution is everything.)」というやつだ。

qP vs. qNPという話で言えば、起業家の姿勢が「アイデア=qP、実行=qNP」0であるのに対し、コンサルタントは「アイデア=qNP、実行=qP」なのだ。

じゃあ起業家とコンサル、どっちが正しいのという話になるが、敢えてちきりんのアドバイスを無視すれば、どっちとも言えない。いや、どちらかが正しいかを議論するのは不毛といった方が正しいかもしれない。

事業会社がコンサルを招き入れる具体的な理由は、様々である。新規事業が行き詰っていてアイデアが枯渇している場合もあれば、コンサルを噛ませることで社内政治をやりやすくする場合もあるだろう。地味だけど重要なオペレーション改善なんかにも、コンサルタントは助けになる。いずれの場合にしても、自分たちだけでは上手くいっていないからコンサルを雇うわけで、その時点で、事業会社の人間は、コンサルタントの価値を軽視する身分ではない。また、コンサルタントたちも、自分が当事者でないことを忘れてはいけない。それこそ彼らに言わせれば「バカばっかり」の社員を率いて、社員の生活とキャリアを賭けて仕事をしている人間の苦労は、賢い少数精鋭の同僚に囲まれ、数ヶ月単位で会社を渡り歩けるコンサルタントたちが、安易に推し量ってよいものではない。

至極当り前のことだが、どんな仕事だって、一番うまくいくのは、素晴らしいアイデアを、きちんと実行できた時である。そして、そのためには、事業会社の人間とコンサルタントは、お互いの仕事を尊重しなくてはいけない。お互いの仕事をqPだと決めつけている間は、コンサルタントは「バリューが出せていない」と思うし、クライアント会社もいい仕事ができていないと思う。

6. 意識が高い人たち

コンサルの知り合いは、往々にして意識が高い人が多い。そして、ぼくは意識が高い人たちが苦手で、彼らを見ていると、半ば衝動的にちゃちゃを入れたくなってしまう1。ただ、このqP vs. qNPのことを考えているうちに、いくぶん考えを改めるようになった。そういう意味では、ここまでのqP vs. qNPの応用例が、ぼくの既存の価値観を確認するものであったのに対し、この例は、ぼくがどう考え方を改めたかという話だ。

そもそも、なぜ自分は意識が高い人が苦手なのか考えてみると、おおよそ以下の2つの理由に集約される。

  1. 彼らの言うことは行動が伴っていないから
  2. 彼らの言うことは間違っているから

まず、1についてだが、これは先ほどのコンサル vs. 起業家の話と似ている。確かに意識の高い人は、「言うだけ」の人が多い。茂木健一郎とか田村耕太郎の発言を聞いていると「そんなに日本の大学受験を否定してアメリカの教育を肯定するなら、アメリカの大学を出た日本人ばっかり集めて何か成し遂げてみろよ」と言いたくなるし、迷路馬(メイロマ)みたいに、「日本はダメだ!ダメだ!ダメだ!」と吠えまくる人(馬?)を見ていると心底イライラしてくる。

そして2についてだが、何故か意識の高い人たちは、アメリカの話をしたがる傾向があり、彼らの口から発せられる事実無根で荒唐無稽なアメリカ漫談を聞く度に、在米14年のアメリカ人である筆者は、「それ違うから。頼むから嘘言わないで」モードになってしまうのだ。

が、少し冷静になって考えると、「そういう彼らを批判するという自分はどうなのか」とも思うわけだ。qP vs. qNPという枠組みで考えると、モギタムラメイロマに代表される「既存の価値観、伝統的な体制に対して(一見メチャクチャでアホらしい)意見を投げかける」という行為は、「既存の価値観、伝統的な体制から脱却し、社会を良い方向に促す」という至極まっとうで、少なくともqNPな問題2に対する挑戦だとは思えないだろうか?そして、彼らのザルのような論理立てと、リサーチ不足を指摘し、「ほら見ろ、またアホが間違っている」と悦に入ることは、これまた自明レベルでqPな行為じゃないだろうか?

方向の善し悪しに関わらず、社会を変えるというのはとても難しい問題で、それに対する提案たちの殆どがツッコミどころ満載なのは当たり前なのだ。そういった確率論的寛容さを持たずに、インテリを気取ってツッコみ、代替案すらまともに提示しないのは、それはそれで格好悪い。qPな問題ばかり注視し、qNPな問題に取り組む人たちを侮蔑するオナニー野郎3である。

ぼくは今でも意識の高い人たちは苦手だ。ただ、「どうやったら日本の教育がよりよくなるか」とか、「どうやったら日本人の国際的競争力を上げていけるか」といった問いに対して、自分が何か代替案を提示できているかといえば、恥ずかしながら真剣に考えたことすらない。ぼくも、qPな世界で堂々巡りをしているだけなのだ。

このことに気がついてから、ぼくは意識の高い人をバカにするのをやめようと思った。これは、人の言動のあら探しと揚げ足取りが天才的に上手い自分にとっては、非常にツラいし、難しいことなのだが、仮に彼らの言動の矛盾点や問題点に気づいたとしても、これからは建設的なフィードバックをすることで、一緒にqNPな(あるいはそれより難しい)問題に一緒に取り組めたらなと思う。

はい、そこ笑わない。ぼく真剣だから。

7. 結論に代えて:相手と自分

いろいろと例を出してみたが、このqP vs. qNPという枠組みは、究極的には「相手と自分」という話に行き着く気がする。我々は自分のアイデアや行動はqNPで、他人のアイデアや行動はqPだと決めつけるクセがある。自分のやっていることは大事で、自分の取り組んでいる仕事やプロジェクトは意味があり、そして崇高なものだと。自分が目指す道は険しく、そしてよくわからないが正しいと。そういう自分という存在は、そう簡単に紐解けるものではないと。

自分、自分、自分、自分。

ただ、みんながそんな風に思っていたら—それはそれはマジファックでカオスである。そして残念ながら、けっこう世の中はマジファックでカオスなのだ。

ただ—

もし、脳細胞をぐいんぐいん回して自分のアイデンティティを守ることをやめ、リラックスして相手の話を聞いたら—

もし、相手の言動の粗探しではなく、その向こうにある意図の宝探しをしたら—

もし、<ここに自分が考える、どう考えても自己中でサイテイだった経験を入れてください>ではなく、<今だったらこうするのになあと思う代替案をどうぞ>だったら—

...世の中もう少しハッピーになると思うのだ。

長くなったが、読者がもう少し幸せに優しく生きるための一助となれば幸いである。



  1. 後で、別の人の文章の自己参照性を、青臭いポストモダンだと批判するが、すでにこの時点で、「ぼく自身の文章が自己参照」という今更な叙述的テクニックを利用しており、すでに偽善的なことこの上ない(という自分の矛盾を指摘するところも、これまた厨二的ポストモダンである)。

  2. これでも数学専攻だったりする。

  3. Brad Efronという統計学者がいて、彼が広めたBootstrapという画期的な統計的手法がある。そのBootstrapについて書いた彼の論文があるのだが、理論的な部分は最初の1-2ページだけで、残りの十数数ページで具体例を紹介しまくることでBoostrapの有用性を説くというスタイルを取っており、これが非常に説得力がある。今回はそのスタイルを模倣してみたい。

  4. そして残念ながら、そんなものは本としては到底売れない。

  5. 執筆時間に加え、ネタ集めや内容の吟味などを含めると、本を読む時間と同じくらい、このブログには時間を割いているので、公平な比較だと思う。

  6. 今だから言えるが、あの話は完全な創作である。あの文章を書く1か月くらい前、品川のWiredカフェでオサレ東京女子を見かけ、その子の服装を文章にしたいと前々から思っていたところ、ひょっとしたら「リーダーとは何たるか」みたいな話と組み合わせたらブログに載っけられるんじゃないかと閃き、ちょっと書いてみたらすんごい流行ってしまったのだ。著名ブロガーであられるnaoyaさんにもマジレスをくらってしまい、「すいません、女の子の服装とクランベリージュース以外、ぜーんぶフィクションです」とは中々言い出せなくなってしまった。ちなみに東京女子だけでは尺が足りないなと思って足したMiyakeのくだりに至っては、服装すらもフィクションである。

  7. (あと10回繰り返す)

  8. 往々にして、重要さとqNP性は、相関関係にある。例外もなくはないが、もし重要かつ簡単な問題が存在するんだったら、真っ先にそれを解決するべきだ。

  9. イシューとも言うそうです。

  10. 本来だったら「=」ではなくて、「∈」或いは「⊂」(アイデアという集合)を使うべきなんだろうが、数学的正確さを問うなら、もっと別にもツッコミどころがあるので、気にしないことにする。

  11. 例1例2例3

  12. qNPの定義に立ち戻ると、「出た回答が正解かどうか判断するのは楽」ですら怪しい。場合によっては、回答の正当性を判断するのすら難航を極めるだろう。

  13. こういう場合でも、ぼくはジェンダー的に中立な表現をしたいのですが、野郎の女性版は何ですかね。

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