2012-02-21
親父の麻雀から学んだこと
うちの親父はべらぼうに麻雀が強い。
小さい頃、父親の友人たちが我が家に来る度に、「お前の父さんは麻雀つえーんだから」と言っていたが、小学生の僕が麻雀などやるわけもなく、どう強いのか全くわからなかった。それよりも、週末時間のある時に指す将棋で、ただの一度たりとも勝てないことを、いつも不満に思っていた。
中学に入ってしばらくしてから、僕も麻雀をさせてもらえるようになった。子供の頃から言われてきた親父の「強さ」が何なのか確かめたかったし、今考えれば、自分的にはオトナの遊びである麻雀をやらせてもらえることが嬉しかったに違いない。中学1・2年は、学校の友達を我が家に連れてきて、ひたすら麻雀をして遊んでいた。あんまりウチで麻雀をするので、友人の母親からクレームの電話が来たほどだ。「雀荘に行くよりはいいですよーはははは」と電話口でお茶を濁していた母親の声が懐かしい。
そんなガキの麻雀に、たまにだが父親が参加することがあった。今考えれば、チンチクリンの中学生と卓を囲んだところで何も楽しくないだろうが、父親なりの息子とのコミュニケーションだったのだろう。親父の背中ならぬ親父と雀卓というわけだ。友人たちと、麦茶をすすり、夜食のカレーをほおばりながら、役の名前や点数の数え方を教えてもらったりした。
そうして父親と麻雀を打つうちに、ひとつ気がついたことがある。アガる時とテンパった状態で場が流れた時以外、絶対に手の内を見せないのだ。ガキンチョの僕たちは、例えアガれなかったとしても、点数の高い手をテンパっていたりしたら、それだけで13枚の麻雀牌を倒し、「あーあとちょっとで跳ね満だったのに」「タンヤオピンフツモイーペーコードラドラハネマン!」覚えたての役名を嬉々と列挙しながら、これみよがしに落胆するのだ。
でも、そのタンヤオピンフツモイーペーコードラドラ、実現しなかったわけで、実現してない手にはなんの価値もないのだ。
麻雀というのは情報を交換するゲームだ。リーチをすれば、それだけ他のプレイヤーは警戒するし、他のプレーヤーの牌を食えば、自分の手を部分的にさらすことになる。その代償として、リーチすれば点が加算される(あるいはアガれるようになる)し、ポンやチーで、役を揃える時間を稼げたりする。そんなゲームにおいて、自分から手の内をさらすというのは、全く何のメリットもない。
その何のメリットもない手の内を見せるという行為だが、大人になっていろいろな人と麻雀をすると、驚くほど沢山の人たちがするのだ。なかには、そうやって手の内を見せて、他のプレーヤーに特定の役を警戒させ、さらにその裏をかこうというメタな頭脳戦を展開している人もいるのかもしれない。ただ、多くの人の場合、悔し紛れの虚栄心の表れなのではないか。「ぼく、こんなにすごい手だったんだぞー見てよー」
ぼくの父親は、決して控えめな方の人間ではない。人並みのエゴはある人だし、ぼくの何十倍も負けず嫌いだ。ただその父親が、はやる虚栄心や悔しさをぐっとこらえ、決してアガりかけた手を見せないのは、見せても何の得にもならないからだ。これはカンタンなことのようだが、なかなか難しい。負けず嫌いで、自己主張の強い人間ほど、難しい。
ものごとの枠組みを把握し、何が価値のある行為で何が無意味か冷静に判断をし、衝動をこらえ、良い結果が出るべく行動することの難しさと大事さ。それを理解し、かつ実行できていたことが、親父の麻雀の「強さ」なんだろう。
渡米して以来、麻雀をすることはめっきり減ってしまった。正直ぼくはそこまで麻雀が強いほうではない。ただ、アガれなかった手を見せびらかし「あーアレが来れば倍満だったのに」というヤツを見る度に、「こいつはそこまで警戒する必要のないやつだな」と思うのである。