2012-01-18

トイレ

トイレにまつわる2つの話を。

今から6年前のことだ。小学校時代にお世話になった進学塾のT先生と、夕食を食べる機会があった。大学生という子供と大人の境界線にいた大学2年生のぼくに、こんな話をしてくれた。

「大学時代にバーでアルバイトをしていたんですよ。青山のバーでウェイターとして。で、そのバーではトイレ掃除というのはアルバイトの子たちが持ち回りでやっていたんです。当時はお金もなくて、バイトかもしれないけれど、認められて昇給とかないかなと考えたんです。でも所詮は数人いるアルバイトのウェイターの1人です。何か考えなくてはなあと。そしたら気がついたんですよ。他のバイトの子たちがみんなトイレ掃除をイヤイヤやっているんです。それはそうですよね。バーでのアルバイトといったらシェイカーを振って、お客さんとお話してっていうのを想像します。でもトイレがある以上、誰かが掃除しなくてはいけません。私は当番のとき、徹底的にトイレ掃除をすることにしました。」

「私」なんて第一人称は気恥ずかしいものだが、ザ・紳士のT先生が言うとしっくりくる。

「数ヶ月そんな感じでトイレ掃除をしていたんですよ。とにかくぴっかぴかに。酔っぱらっている客もいますから、あ、食事のときにこんな話をするのも恐縮ですけど、まあ汚かったりもするんですけど、とにかく文句を言わずにぴっかぴかに。そしたらお店のマスターが気がついたんです。おい、お前トイレ掃除をちゃんとやっているなって。ああ気づいてもらえたなあと。でもすぐに昇給とか、バーを任されるってことはなかったんですよ。でも続けてトイレ掃除は徹底してやっていました。」

「そしたらまた数ヶ月して会計をやっていたバイトの子が大学卒業を機にやめたんです。そのすぐ後、マスターに呼び出されました。おいT、おまえ会計をやらないかと。ウェイターの中でおまえが一番几帳面で誠実そうだと。それでぼくは晴れてレジを任されたんです。そしてレジの仕事もきちんとやっていたら今度はマスターがいない時にはバーを任せられるようになりました。別にこれは、『どうだぼくはすごい誠実だろう』って話ではないです。大体誠実な人はそんな話をしません。あ、そうするとぼくは誠実ではないのかな。」

昔からそうだが、たまにT先生の第一人称は「ぼく」になる。たぶん少し油断して、本音が出るときなんだろう。

「大事なのは、認められる近道というのは、必要とされていることを丁寧にやることです。たとえみんなが嫌がることでも。仕事というのは自分本位でやるものじゃないなとそのバーでのバイトを通して学びました。」


先日、スタンフォード大学のビジネススクールの寮にお邪魔した。知り合いが去年からMBAの生徒として住んでおり、共通の友人と3人で夕飯を食べたあと、手持ち無沙汰だったので、寮の自習室でボードゲームをやることになった。噂には聞いていたが、寮とは名ばかりのホテルだった。

まず門をくぐるとロビーがあるのだが、まずこのロビーがモダンで豪華だった。寄せ棟の白木の天井まで10メートルはあるだろうか。座り心地のよさそうなソファと幾何学的なオブジェが置いてあり、高くそびえる四方の淡い橙色の壁に反射した照明が美しかった。レセプションデスクの向こうには、高級マンションとかにいそうな怪訝そうな顔をした小太りのオジサンが立っていた。

ロビーを抜けると中庭があり、それを囲む半屋外の舗装された廊下をつたい自習室まで歩いていった。途中、備え付けの雑誌棚が廊下ぞいにあり、エコノミストやニューズウィークといったインテリ雑誌があった。おそらく住人向けのものだろう。高い寮費を払っているんだから雑誌くらいタダで当たり前かと思いつつ、ぼくらは自習室に行き、ボードゲームに興じた。

最初のゲームが終わったあと、トイレに行きたくなった。そういえばロビーからここにくるまでに廊下ぞいにトイレがあったなと思い、さっき来た道を戻ると、左手にトイレがあった。ロビーがあんなに豪華ならトイレもさぞかしゴージャスに違いないと思いドアノブに手をかけた。

中に入ってびっくりしてしまった。

トイレそのものは普通だった。アメリカにありがちな5畳ほどの無駄に広い個室トイレで、入って右側の壁の真ん中あたりに洗面台があり、その奥の角に便器が置いてあった。驚いたのは、洗面器の中に、10センチほどの厚さの便座シートの束が山積になっていたことだ。悪ふざけをするやつがいるものだ。まあいい用を足して手を洗う時に捨てればいいやと思い、奥の便器に向った。狙いを定めるべく便器を覗いたところ、なんと便器の中にも便座シートが山積みになっているではないか。これ流れるのかなあと心配になったが、まあ小便だしいいやと思い用を足し、3度水を流した結果、度重なる水流でフニャフニャになった便座シートの束は、便器の奥底に全て吸い込まれていった。

ぼくは洗面器の中の便座シートをゴミ箱に捨て、手を洗い、トイレを出た。

あの便座シートの山は、一体誰の仕業なんだろうか。酔った生徒の悪ふざけだろうか。それとも、便座シートを見ると、全て捨ててしまいたい衝動に駆られる人がいるのだろうか。理由はなんであれ、次にトイレを使う人にも、トイレを掃除する清掃員の人にも失礼である。もしもスタンフォードの学生だったなら、大学や大学院で難しい理論やケーススタディを論じるよりも、社会の構成員として基本的なことを先に学ぶべきだろう。

T先生も、バイトをしていた青山のバーで、非常識な客が便器の中に捨てたトイレットペーパーや便座シートの束を片付けたのだろうか。

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