2012-01-02
F君の家にて
その日、ぼくはクラスメートのF君の家で遊んでいた。小学校4年生にあがる前の3月のことだ。うちの近所には、トップスというスーパーがあり、F君は、同じビルのアパートに住んでいた。1階がトップスで、確か3階にF君の家族は住んでいたはずだ。
F君は、色黒で、四角い眼鏡をかけた小太りの子で、学校ではいじられキャラの方だった。勉強が飛び抜けてできるわけでも、運動神経がいいわけでもないF君には、中庸ということばがピッタリだった。いじられキャラとしての自分を、一定の冷静さをもって見つめている不思議な子だった。
F君の家で得られた最大の発見は、F君のお母さんが、どちらかといえば不細工なF君と全く似ていない、相当に美人でイケイケな女性だったことだ。今となっては記憶もおぼろげだが、三原じゅん子に似ていた気がする。F君のお母さんは、遊びにいったぼくたちを、満面の笑みで迎えてくれた。「あーらユーキ(F君の下の名前)がお友達を連れてくるなんて珍しい。ゆっくりしてってねー」普段はぼそっとしているF君が少し恥ずかしそうだった。
確かあの日は天気がよかった。天気がいいなら外で遊べばいいものだが、F君もぼくも、ぼくが連れていった友達も、運動が好きなタイプではなかったので、スーパーファミコンでボンバーマンをするということで落ち着いた。時折F君ママが、麦茶やケーキを持ってきてくれた。ケーキをほおばりながら、ぼくは自分のボンバーマンの才能のなさを呪った。
F君の家にお邪魔して数時間が経っただろうか?近所にちょっと買い物に出ていたF君のお母さんが、慌てふためきながら帰ってきた。
「ねえユーキ、テレビゲームやっているところ悪いんだけど...ちょっとテレビをつけてくれない?」
F君がビデオ変換のボタンを押すと、緊急ニュースをやっていた。1995年3月20日月曜日。地下鉄サリン事件だった。
今考えれば、うちの家族はラッキーだった。当時ぼくは人形町にある進学塾に通っていて、3月27日から一週間、毎朝9時から春期講習があった。地下鉄サリン事件の計画が、あと一週間遅れていたら、日比谷線のあの電車に乗っていたかもしれない。父親も、当時築地にある会社で働いており、普段だったらサリンがばらまかれた車両に乗っていたはずだったが、その日はたまたま寝坊したか、いつもより早く家を出たかで、被害にあわずにすんだ。
報道番組を15分ほど注視した後、ぼくと友達は、早めにF君の家を引き上げ、帰路についた。ボンバーマンのことも、F君の美人なお母さんのこともすっかり頭を離れ、報道番組のレポーターの怒声だけが頭に響いていた。ぼくの記憶の限り、生活のすぐ近くで起きた、最初の大量殺人だった1。
あれから16年強、ぼくの世代は、オウム心理教の指名手配ポスターと育ったといっても過言ではない。麻原彰晃は一躍有名人になり、小学校ではショウコちゃんが、不幸にも「ショウコウちゃん」と呼ばれるようになった。日が経つごとに事件と教団の全容が明らかになり、次々と幹部が逮捕されていった。ああいえば上祐も、早川ノートの主も、麻原彰晃も、みんなお縄となった。
それでも捕まらなかった3人が平田信、高橋克也、そして菊地直子だ。事件から3年が経ち、ぼくは晴れて中学生になったが、その3人の行方は知れないままだった。中2の時に渡米し、生活の拠点がアメリカになった後、その後も東京に遊びに行き、地下鉄構内で指名手配ポスターを見かけるたびに「ああこいつらまだ捕まってないんだ」と、事件のことを思い出した。時間が経つ度に、現在の予想スケッチやら、変装したイメージ図が付け加えられていった。平田信は183センチ。高橋克也は中肉中背。菊地直子は159センチでマラソン選手。10数年ポスターで写真を見続けた彼らには、奇妙な親近感さえある。この3人の写真は、ぼくが生涯でもっとも沢山見た写真じゃなかろうか。
永遠に捕まらないとさえ思えた3人の1人、平田信が去年の大晦日に出頭し、世間を騒がせている。彼は何を思い出頭したのだろう。[江川紹子は、麻原彰晃の死刑が決定した今、平田信が出頭し証言することで、死刑執行が遅れる可能性があると言っている[^2]。](https://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00214543.html)彼は「教祖」の死刑を遅らせるために出頭したのだろうか。それとも16年以上の逃亡生活の末、罪を償う決心をしたのだろうか。もちろん、本心は本人にしかわからないだろうし、本人だって何から何まで考えが整理されているわけではないかもしれない。でも、オウム真理教および教団が起こした一連の事件に家族や大切な人を奪われた方々にとって、平井信の出頭は1つの到達点だろう。
今度、東京に行った時、久しぶりに大幅にアップデートされた指名手配のポスターを見て、ぼくは大きな違和感を覚えるに違いない。いや、できればポスターそのものがなくなっていることを望む。