2011-12-05

日本でソフトウェアエンジニアが高く評価されない理由(かもしれない)

タイトルの話に入る前に、日本とアメリカの平等について少し話そう。

アメリカは平等な国だと言われる。どこの馬の骨かわからない移民でも、結果次第で門戸が開く国。徹底した実力主義。既成の枠組みに個人を押し込めない自由な思想。これは嘘ではない。オバマ大統領をはじめ、多くの人たちが、逆境を乗り越え、自分の実力で勝負し、不可能とされることに挑戦し、多大な成功をおさめてきた。アメリカンドリームと言われるゆえんだ。14歳で移民したぼくも、アメリカのオープンな実力主義の恩恵を受け、今に至っている。

確かにアメリカは、誰にでもチャンスを与えるという意味では公平だ。でも考え方によっては不公平な国でもある。例えば大学入試。基本的に日本では、みんな一斉に同じ試験を受け、そこで上から何人というふうに合否を決めるが、アメリカは全て書類選考だ。高校や標準考査(SAT/ACT)の成績に加え、育った環境・人種・課外活動・小作文・教師からの推薦状などから「包括的」に合否を決めることになる。アメリカでは、生徒の背景をいろいろ吟味してこそ平等だと考えているからだ。ざっくり言ってしまえば、貧乏でアフリカ・ラテン系のマイノリティなら下駄を履かせてもらえる反面、アジア人は競争が熾烈だと言われる。大学入試の時、人種欄でアジア人をチェックするか悩むハーフの子たちがいるくらいだ。親が多大な寄付を大学にしていれば入りやすいし(ブッシュ元大統領などがいい例)日本と似たようなスポーツ推薦枠もある。

日本の大学入試は、たった1つの試験で人生を左右させるものだとよく批判される。では、数多くのあやふやなパラメーターで合否が決まるアメリカの大学入試は平等だろうか?

もう1つアメリカの「平等」さを物語るものとして、何度もセカンドチャンスがあるということだ。先の大学入試もそうだが、アメリカでは、人生の各ステージにおいて、頑張っているやつには社会的に引き上げてもらえるチャンスが設けられている。例えばトップの大学に学部で行けなくても、大学でがんばっていい成績を残せばトップレベルの大学院に行けるし、トップレベルの大学院に行けなくても、そこで画期的な結果を出せば、トップレベルの大学で職を見つけることも珍しくない。これはアカデミアに限った話ではなく、産業もそうだ。実力のあるやつは海外からでも、中小企業からでも引っ張ってくるのがアメリカだ。日本でそういった下克上的な動きがないといっているのではない。アメリカでは下克上が日常茶飯事だということだ。

では、このエブリデイ下克上の仕組みは平等なんだろうか?エブリデイ下克上は、裏を返せば、「今までどんなに頑張ってきても、将来は不確かで油断はできない」ということだ。例えばハーバード大学を出ても、仕事ができなければ、そこらへんの無名大学を出たけど、キャリアを積んで実力をつけたやつに席を取られることもあるし、今は取締役でも、現四半期の売り上げが落ちれば、即刻解雇なんてこともありえる。もしも、自分がそうやって追いやられる立場だとしたら、この下克上システムを平等だと思えるだろうか?「なんだ私チョーガンバってハーバード卒業したのに。なんでこんな高校の時にマリファナばっかりやって三流大学しか行けなかったようなやつに席を取られるわけ?」「なんだよ。すごい頑張って業績をあげて取締役になったのに、すぐ辞めなくちゃいけないんだ!現四半期はともかく、おれは過去5年結果を出してきたじゃないか!それは吟味しないのか!」

その一方、日本は既成権力を守るスタンスでやってきた。未だに就職活動では、大学名に応じて会社説明会をするというし、終身雇用の幻想が崩れつつある今でも、多くのサラリーマンが長期間、同じ会社に勤続する。一連のオリンパスに関する騒動や、経団連の動き方も、既成権力の権化といってよいだろう。でも、既成権力を偏重する在り方は、必ずしも不平等ではない。がんばって東大に合格し、三菱商事や三井物産といった優良企業に入り、そこでがんばっていけば、外部の人間に脅かされることなく将来を約束されるというのは、ある意味公平だ。(東大に合格する努力)+(商事や物産に尽くす忠誠心)=(社会的・金銭的な安定)というわけだ。

日本とアメリカのどちらが平等かという話ではない。日本とアメリカでは、平等の捉え方に大きな乖離が見られるというだけだ。日本の平等は、言わば枠組みの中での平等であり、アメリカの平等は、チャンスを与え続ける平等だ。


これがソフトウェアとどう関係があるのか?ソフトウェアの世界での平等は、日本の平等よりもアメリカの平等に近い気がするのだ。勿論、ソフトウェアの世界でも権威主義はあるし、今までの貢献は加味される。だが、やっぱりよいソフトウェアを書き、質の良いパッチをオープンソースのプロジェクトに投げるプログラマは、徐々に認知され、結果的には高い名声を得ることになる。雇用はともかく、オープンソースの世界では、年齢や人種すらも関係ない。コンピューターとインターネットさえあれば誰でも参加することができる、究極の実力主義といえる。ソフトウェアの世界での平等は、コードで全て判断する平等だ。

ソフトウェアの平等は、アメリカの平等とよくマッチするのだ。基本的に誰にでもチャンスを与え、あくまで実力主義のソフトウェアの世界は、アメリカ社会が理想と掲げるかたちだ1。シリコンバレーでのソフトウェアエンジニアの一社あたりでの平均勤務歴は2年間という。常により自分を評価してくれる場所を追い求め動き続けるというわけだ。

逆に、基本的に既成権力を是とする日本に、ソフトウェアの文化は馴染みにくいのではないだろうか。どっかの馬の骨かわからないやつを、実力があるからといって認めていたら、既成権力を崇拝し、忠実にレールに乗ってきた人間を裏切ることになる。ひいては社会のシステムそのものが瓦解しかねない。

一つ、アメリカでは考えられないなと思ったエピソードがある。東大を出た知り合いで、ある日本のソーシャルゲーム会社でエンジニアとして働いている人がいる。なんと彼は、入社が決まった時からプログラミングを覚え始めたというのだ。つまり入社面接の時にコーディングは要求されなかったということになる。「東大生だったら頭良いから入社してから教えたって大丈夫」ということなんだろうか。あえてカギ括弧でくくったのは、個人的には荒唐無稽な考え方だと思うからだ。当然のことながら、フェイスブックもグーグルも面接でガンガンコードを書かせるし、そもそもプログラミング経験のないやつは、スタンフォードだろうとMITだろうと面接すらしない。「コードが書ける」という基本的な会社のニーズを充たして初めてスタンフォードやらMITやらハーバードやらといった大学のブランドが意味を成すからだ。ハーバード卒のプログラミング初心者に手ほどきするよりは、高卒の凄腕プログラマーにチャンスを与えるのが、アメリカのやり方だ。

最後に断っておくと、日本も最近変わりつつある。DeNAやGREEでは、多くの優秀なエンジニアが、それ相応の給料を貰って働いている。プロダクトの社会的な価値には大きな疑問符がつくが、実力のあるソフトウェアエンジニアが伸び伸びと仕事ができる場所が増えていることはいいことだ。それでも日本の基本的な価値観に、ソフトウェアの文化は馴染まないような気がするのだ。日本でソフトウェアエンジニアがアメリカほど高く評価されない理由。それは社会全体の価値観の差異かもしれない。



  1. アメリカ社会は実際はそうでないことも多々あるし、オープンソースだって全く理不尽なことがないわけではない。

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