2011-11-10
間違えてナンボ
学校教育1の最大の弊害、それは「間違えることに対する恐怖心を植え付けること」。
この傾向は、特にエリートとされる人々の間で顕著である。そりゃそうだ。エリートは、学校教育のシステムの中で、間違いを最小限にとどめてきた人たちだ。間違いが少ないからこそ、一流の大学に入り優良企業に就職できるのだ。途中であんまりミスが多いと落ちこぼれて、エリートコースから脱落することになる。
間違えることを恐れることが、なぜそんなに問題なのか?それは、間違えることは人間として成長するうえで、大切な触媒だから。間違えることを恐れる人は、そのぶん思い切った言動ができなくなり、自分でのびしろを縮めてしまう。そして、生き甲斐も将来に対する希望も、のびしろの大きさに比例する。間違うことへの恐怖心は、人生のガンだ。
間違うことを恐れるなというのはカンタンだ。でも実行に移すのは難しい。明日から恐れるのをやめますと宣言すればすむわけじゃない。そこで、ぼくなりに自分の体験も踏まえて、どうやったらそれができるか考えてみた最良の方法はこうだ。
外国に定住すると、面白いほどにいろいろ間違える。まずは言葉の間違い。ぼくも12年前に渡米した時は、間違いの連続だった。頑張って英語を話しても発音はバカにされたし、文章を書けば「何を言っているのかわからない」と冷やかされた。最初は恥ずかしかったが、時間が経てば慣れる。長期間行けというのは、この慣れるフェーズまで到達するためだ。間違えることを是とするわけではない2。ただ間違えることを恐れていたら、外国語なんてのは絶対に話せないので、海外に住んで、その国の言葉と真剣に向き合うことは、間違えることへの恐怖心を徐々に取り除いてくれる。
「若い段階で」と書いたが、これにも理由がある。大人というのは計算高い生き物だ。例えば日本のビジネスマン、ヒロシさんがアメリカに来たとしよう。周りのアメリカ人は、ヒロシさんの目の前で彼の文法の間違いや発音をからかったりはしないだろう。そんなことをしたら自分たちの人格を疑われるし、なんのメリットもない。内心では「プッなんだこいつ。意味わかんねーのw」と思うかもしれないが、口では大げさに、ヒロシさんの英語を褒めるに違いない。でも彼らがそうして不誠実にヒロシさんを褒めてしまうことで、ヒロシさんは自分の間違いに気づくことなく、「俺って結構英語できんじゃね」と、錯覚することになる。自分の間違いに気づけなくなったらオシマイだ。
その点、10代の子供たちは残酷だ。心地よいほどに、これでもかとバカにしてくれる。憎たらしく思うかもしれないが、長い目で見たらこっちの方が、ヒロシさんのケースより何百倍もラッキーだ。人間、恥ずかしい思い出というのはよく覚えているものだ。1000単語誤用して、1000回バカにされたら、1000単語忘れずに頭に残るわけだ。これは、どんな暗記方法よりも効果的だ。
間違えるのは言葉だけではない。文化的な間違いも数多く犯すことになるだろう。でもそうやって間違いを繰り返すことで、異文化というものは初めて理解できていく。ぼくもニューヨークに移住しなければ、ユダヤ人の文化を理解することもなかったし、トレーディング会社で2年半働かなかったら、金融のカルチャーを知ることもなかった。百聞は一見にしかずだ。
「別にこんなことしなくてもよくね?」と思う人もいるだろう。もちろん日本にいながらにして、間違えることへの恐怖を克服できる人もいるかもしれない。ただ個人的には、14歳で渡米という、人生ゲームで言えば「持ち金全部没収、ふりだしにもどる」を経験しなかったら、ぼくは今よりもずっと間違えることに対してアレルギーを持っていたに違いない。異文化に突然放り出されるという極めて理不尽な経験をさせてもらったことで、初めて「間違えたっていいじゃないか」と割り切れるようになった。そして、その割り切りが、紆余曲折七転び八起きの米国生活を支えてきた。
そう誰もが今すぐに長期間海外に滞在できるようになるわけではないことは十分承知だ。でも、日本人がもっとたくさん海外に飛び出し3、その土地の文化に溶け込んで活躍していったら4、それだけ思い切った生き方をする日本人が増えることになり、国というか民族の未来も明るくなる気がする。