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教養は水です

教養って何なんだろう。貧乏人の家に生まれたおかげで大した文化資本がないせいか、この「教養」という胡散臭い言葉の指すものが分からない。

教養ほど定義しづらいものは少ない気がする。「頭の良さ」とか「優しさ」の方が、まだ意味がはっきりしている気がする。ただ、「頭の良さ」とか「優しさ」と一緒で、年を重ねるにつれて、自分の中での定義が推移している。ということで、ぼくなりの教養観を、独立記念日で閑散としたサンフランシスコの片隅で振り返ってみたい。

📖 教養は知識だった

物心ついた頃から大学に入るくらいまでは、教養というのは、幅広く物を知っていることだと思っていた。先の引用元にも書いてあるけど、名作と呼ばれる本を軒並み読んでいたり、とにかくいろいろなことを知っている、歩くWikipediaみたいな人たちのことね。当然自分も教養のある人になりたいと思ったから、いろいろなことを手広く読んだし、今でもそういうことは好きである。

👀  教養は洞察力だった

大学に行くと、様々なベクトルですごい人たちがたくさんいた。普通にとても頭の回転の速い人から、それこそ何でも知っていて、その時点で自分が「教養が高い」と思っていた人。ただ一番印象に残っているのは、鋭い世界観を持っていた友人Dだった。Dはいろいろなことを知っていたが、何よりも知っていることから世の中の仕組みを把握することにすごい長けていた。

こんな話をしたことがある。

—ヘッジファンド[1]のバイトどう
—楽しいよ
—大学出たらそこ行くの
—行かない
—何で?
—少なくともこのヘッジファンドにいる人たちは落ちこぼれだから
—落ちこぼれってことはないでしょ
—アカデミアの中では落ちこぼれってことね
—それって彼らは数学ができなかったってこと
—いや、必ずしもそうではないと思う。ただアカデミアだって仕事だし、仕事がデキる=認められるではないんじゃないかな。そういう政治的な側面も含めてキャリアだと思うんだけど。Ph.D持ってる先輩は…まあそれが大半なんだけど…やたらアカデミアの悪口言う人が多いんだよね。そういうのみてると、アカデミアで満たされなかった名誉欲を、ヘッジファンドの給料で補てんしようとしてる感じがする。そういう人たちと楽しく働くには、自分もアカデミアで挫折する必要があると思うんだよね。そのためには、いずれにせよ一回アカデミアに行ってみる必要がある

Dは新卒数千万のオファーを蹴って、数学博士になった。今も年俸300万の給料で、なんか難しい数学をやっている。「教養が高い」と言われている人の意見を鵜呑みにしがちなぼくには、自分の視点を持っているDは教養が高く見えた。

☺  教養とは自分と向き合えること

じゃあ今の自分にとって教養とは何なのかと思うと、自分と向き合えることじゃないのかな、と思っている。

現代は、とかく目まぐるしい。ほぼリアルタイムで人とコミュニケーションを取り、スマホを見ていれば、何時間でも時間をつぶせる。常にすることは何かある社会になっている。

でもそれは裏を返せば、ほんとの意味での暇な時間が欠乏した社会なのかもしれない。暇というのは、実は怖いものである。なぜなら、暇な時こそ、我々は自分と向き合うことをせまられ、自分たちの創造力の乏しさ、世界観の狭さ、孤独さを確認することとなるからだ。誰だって嫌でしょ、そんなの。

たぶん、教養が利いてくるのは、そういう時で、そう考えると、「自分と向き合えるチカラ」としての教養は、ぼくの以前の教養観を包括するものだ。いろいろなことを知っていれば、自分の知識を反芻して暇をつぶせるし、洞察力の鋭い人は、自分を取り巻く世界について再考する良い機会と捉えられる。でも、別に知識が豊富じゃなくても、洞察力が鋭くなくても、自分と向き合う方法はたくさんある。作曲するとか、ソフトウェアを書くとか、絵を描くとか、読書するとか、ブログを書くとか(ぇ

そんなところだろうか、今の教養観は。まあ、筆者はまだアラサーなので、今後も変わることを期待したい。

ちなみにタイトルだが、最初は「教養は水です」というメタファーとキョウヨウに溢れる文章を試みたのだが、全くもってそんな風にならなかった。が、水つながりでいくと「これは水です」は、教養の高い考え方のいい例だと思うので、一読あれ。こんないい加減な終わり方ができるのも、個人メディアのよいところである。


  1. 名前は伏せておくが、数学や工学の天才が集まるとされる世界有数のヘッジファンドである。

2014-07-04