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これは水です。

(訳注:2008年に急逝したアメリカの作家David Foster Wallaceが2005年にKenyon大学でした卒業スピーチです。個人的には同年のStanfordでのSteve Jobsの卒業スピーチより、遥かに奥深く、かつタメになると思うのですが、あまり知られていないようですし、訳されていないので、自分でやることにしました。以下が拙訳です。)

もし発汗[1]したい人がいるなら、どうぞお好きなようにしてくださいな。多分ぼくもします。てかする...こんにちはーおめでとーKenyon大学2005年度の卒業生のみなさん。2匹の若いサカナが泳いでおり、逆方向に泳ぐ年上のサカナに会いました。すれ違い様、年上のサカナはこう言いました。「おはよう少年たち。今日の水はどうかね。」2匹のサカナは特に気にもとめず、しばらく泳いでから、顔を見合わせて言いました。「てか水って何?」

今の話は、米国の卒業スピーチにおいて、一般的に不可欠とされている教訓いっぱいの寓話っぽい話です。この「教訓いっぱいの寓話を交えること」という条件は、米国の卒業スピーチにおいては、まあマシな方の条件です。ちなみに僕は、自分が年上の知恵のあるサカナで、君たちが若いサカナで、「水」とはなんなのかという説法をしに来たのではないです。心配しないでください。ぼくは年上の知恵のあるサカナではありません。サカナの話のポイントは、人生において、もっとも自明で大切な現実は、得てしてもっとも見えづらく考えにくいものだということ。文章にしてしまうと陳腐な表現ですが、社会人としての日々の生活の中では、この陳腐な表現が、生と死に関わるくらい重要になりえるってことを、この渇いた快晴の朝に、君たちに伝えたいのです。

モチロンこの類いのスピーチでは、ぼくは君たちが受けてきたリベラルアーツ教育の意味について語ることが必要で、要は何で君たちが受けた教育が、金銭的な利益を超えたところの、まことの価値を持つのか説明しなくてはなりません。ということで、リベラルアーツ教育の価値について話しましょうか。大体こういうスピーチで語られる、ありきたりな話の最たるものが、「リベラルアーツ教育の目的は、知識をためこむことではなく、『自分の頭で考えられるようになる』ことである」というやつです。もし君たちが大学生の時のぼくみたいだったら、この話はあまり好きではないと思います。この大学のような立派な大学に合格したということは、すでに自分の頭で考えられるということを立証していて、今さら「君たちが自分の頭で考えられるようにしてやった」と言われると、あたかも大学に来るまで自分の頭で考えられなかったみたいで、侮蔑的ですらあります。でもここで一つ提唱したいのは、この話は実は侮蔑的ではなくて、大学で得るべき真の教育というのは、「自分の頭で考えられるようになること」ではなく「考えるべき対象を選べるようになること」だからです。考える対象の選択の自由、そんなの当たり前で話すだけ時間の無駄だと思う人は、さっきのサカナと水の話を思い出し、少しの間だけ、この「自明」なことの価値に対する懐疑心を取り払ってもらえるとうれしいです。

もうひとつ説教クサイお話をしましょう。アラスカの雪原のバーで、二人の男が酒を飲んでました。1人は信仰深く、もう1人は無神論者で、神の存在について、ビール四杯目くらいからガッと来る迫力というか頑固さで、議論をしていました。無神論者はこう言いました。「あのな、理由もなく神を信じないわけじゃないからな。お祈りやらなんやらだってやったさ。先月だってヒドい吹雪に巻き込まれて遭難したんだよ。何も見えないし気温はマイナス45度。もうダメだと思って一か八かで神様にお祈りしたんだよ。『助けてくらっさい。さもないと死んじゃう』って」この話を聞いた信仰深い男は、不思議な顔でもう1人の男を見て、こう言いました。「だったらもう神を信じるしかないだろう。こうやって今、君は生きているじゃないか。」すると遭難した男は、呆れた顔で答えました。「そんな神様なわけねーだろ。2人のエスキモーがたまたま通りかかって帰り道を教えてくれただけだよ。」

この話に対して、いわゆるリベラルアーツ的な分析をするのは簡単です。「一つの体験が、二人の人間にとって全く異なる意味を持ち、それは二人が、同じ体験にたいして、全く違った信念や観点から、意味を抽出しているから」だとでも言えばいいでしょう。我々は信念の多様性を是とするべきなので、この分析には、どちらの男が正しく、どちらの男が間違っているといった話は出てきません。それは別にいいのですが、一つ問題なのは、この分析には、彼らの異なる信念がどこからきているのかという考察が欠如していることです。さきの分析だと、まるで個の信念は、生物的に定まっている背の高さや靴のサイズ、あるいは周囲の文化から吸収することで形成される言語感覚のように、予め定まっているようにみえます。これだとまるで我々に個人的な、意図的な選択ができないかのようです。先の分析に欠けているもう一つのテーマが「傲慢さ」です。無神論者は、「エスキモーが通りかかったこと」と「神様に祈ったこと」が無関係であると100%信じています。確かに信仰深い人にも傲慢な人はいます。むしろ我々の多くにとっては、やたら敬虔な宗教家の方が手に負えないと感じるかもしれません。ただ、信仰深い人間も、無神論者も、抱えている問題は同じで、両者ともに、盲目的な確信と狭い了見に起因する、獄中にいることすら気がつかない囚人です。

先の話のポイント、それは、もう少し謙虚になること、自分の存在や確信していることを見つめ直すことこそが、「自分の頭で考えること」の意味するところではないでしょうか。今までぼくが根拠もなく自動的に正しいと信じてきたことは、大方間違っていました。何度もそれで痛い思いをしましたし、君たち卒業生もこれからすると思います。

一つ、ぼくが「自動的に正しいと信じてきたこと」の例を挙げましょう。それは、ぼくの周りにあるものは、「『ぼく』は最もリアルで、鮮明で、大切な、宇宙の絶対的中心に存在する」という信念を支えるためにあるということ。我々は普段、こんな風に自分たちのことを考えません。社会的に嫌悪される在り方だからです。でも悲しいかな、我々のほとんどは、実際のところこうです。言わば我々のデフォルト設定で、生まれた時からそう信じるようにプログラムされています。考えてみてください。自分が絶対的中心に存在しなかった経験というものがありますか。あなたの生きるセカイは、あなたの前、後ろ、右、左にあり、あなたは、あなたのテレビを見て、あなたのスクリーンを眺めています。他人の気持ちや考えは、なんらかのかたちであなたに伝わる必要がありますが、自分のものは即刻で、緊急で、リアルです。

僕は、憐憫だの思いやりだのいわゆる人徳だのについて説教するつもりはありません。これは人徳の問題ではありません。先天的な自己中心的なデフォルト設定をいかに抜け出すかという問題です。[2]

この学校の類いまれなる学術的環境を前提に、デフォルト設定を変更するちからがどの程度知識や知力に依存するのかということを考えましょう。この問題はかなりトリッキーです。おそらく学術的教育の最たる問題は、まあぼくの場合ですが、物事を過剰に学術的に捉えるようになってしまい、自分の頭の中の抽象的な議論に終始し、目の前の現実に注意を払わなくなってしまうことです。

みなさんもお気づきでしょうが、自身の頭の中の独白に催眠されることなく、周囲に注意を払い続けるというのは非常に難しいことです。大学を卒業して20年が経った今、リベラルアーツ教育の肝である「自分の頭で考えられること」というのは、「自分の頭で考えられるということは、何について考えるか、ある程度自分でコントロールできる術を学ぶこと」を端折ったものだ、とようやっとわかってきました。つまり、研ぎすました意識を持ち、自分が考えるべき対象を選び、自分の経験から意識的に意味を抽出できるようになること。これができないと人生はツラいものがあります。「意識は優秀な執事ではあるが、最悪な主である」という、これまた陳腐な表現が意図することです。

この陳腐な表現も、他の陳腐な表現と同じように表面的にはつまらないものですが、その奥には壮大で悲惨な事実が隠されています。銃器で自殺をする大人の大半が、自分の頭を撃ちぬくというのは、「最悪な主」を殺すためです。そして、そうやって己を殺める人のほとんどは、銃の引き金を引く前に既に死んでいるのです。

ぼくの考える、インチキなしのリベラルアーツ教育の目的とは、「いかにして心地よい、豊かで、凛とした社会人生活を送り、ゾンビのように、無意識で、自我および唯一の完全な凄まじい来る日も来る日も訪れる孤独のドレイとなるのを回避するか」を問うことです。こんなことを言うと、意味不明で抽象的な誇張に聞こえると思うので、具体的に話しましょう。言い切ってしまうと、君たち卒業生は、まだ「来る日も来る日も」が何かわかっていません。実は、卒業スピーチで誰も話さない、アメリカの社会人生活の大きな比重を占める部分があります。そのひとつが、退屈と、つまらない苛立ちです。親御さんや年配の方々は、ぼくの言っている意味が、よくおわかりになるかと思います。

例をあげます。あなたは朝起きて、やりがいのある、知的階級の、大卒の人のための仕事に行き、10時間ほど一所懸命に働いた後、ずっしりと疲れとストレスが溜まった体で、ああ家に帰って夕飯でも食って1時間ほど息抜きをしてから早めに寝なきゃなあとため息をつき、帰路につきます。早めに寝るのは、また次の日に同じことを繰り返さなくちゃいけないからです。が、そこで家に何も食べるものがないことを思い出します。というのも、「やりがいのある」仕事が忙しかったせいで、最近ろくに買い物をする時間がなかったからです。仕方がないので帰りにスーパーに寄るべく車に乗るのですが、道は大渋滞です。やっとこさっとこでスーパーに辿り着きますが、丁度夕飯の買い物ラッシュで、スーパーも客でごった返しです。スーバーの中は、趣味の悪い照明で照らされており、不愉快な宣伝ソングとポップミュージックが充満しており、正直世の中でもっとも今いたくない場所です。食材を揃えるためにあなたはチカチカするくらい耿耿と照らされた通路を、半分壊れた買い物カートを押しながら、他の急いでいる疲弊した客をよけながら歩きます。と、続きますが、今日は長い行事なので、一部省略します。最終的にあなたは食材を買い揃え、レジに着きます。が、開いているレジが少ないので、そこにあるのは長蛇の列。バカげていると憤慨します。でも、レジの女性に八つ当たってはいけません。彼女は過労働で疲れきっており、その仕事のつまらなさと無意味さは、あなたがたのようにエリート大学を出る人間には想像もつかないことと思います。

まあとにかくレジで自分の番が回ってきます。お金を払うあなたに、疲れきったレジの女性が、人生最期の一言のような声で言うのです。「どうもありがとうございました。」食材の入った薄気味悪いペラペラのプラスチック袋を買い物カートにのせ、これまたごった返しの駐車場に向かうのですが、このポンコツカートは調子が悪く、まっすぐ押しても、気がふれたように左へ曲がります。やっと車に辿り着き荷物を載せますが終わりではありません。これからSUVだらけの帰宅ラッシュの中、自宅まで運転しなくてはいけないのです。

誰でも同じような経験があるでしょう。でも、まだこれは君たち卒業生の生活サイクルの一部ではありません。

これから先の人生は違います。面倒くさい、無意味に思えることが、これからいくつも生活の中に生まれます。でも、大事なのはその事実ではない。大事なのは、こういった日々のつまらない、苛立ちを覚える場面でこそ、先に述べた「考える対象を選択すること」が重要になるのです。道路の渋滞も、混雑したスーパーの通路も、レジの長い列も、すべて考える時間をくれます。そこで、何を考えるか自ら選択しないと、ぼくは買い物をする度にイライラすることになります。先に述べたように、デフォルト設定では、「ぼく」がセカイの中心にあるからです。「ぼく」の空腹。「ぼく」の疲れ。「ぼく」の家に帰りたいという欲望。そしてぼくの願いをジャマする世の中の人全員。というかこいつら誰だ。見てみろ、バカ面ひっさげて、牛みたいな顔しやがって、死んだ目でレジに並んでいて。てか、そこの列の真ん中あたりで馬鹿デカイ声で携帯で話してるやつ空気読めよ。ああ世の中オカシイ。

もし僕のデフォルト設定がもう少しだけ社会派なら、渋滞に巻き込まれた車の中で、まわりを囲むSUVやらハマーやらV-12トラックに悪態をつくかもしれません。100リットルはあるタンクに詰まったガソリンをジャンジャカ燃やしやがってアホが。環境のこと考えろ。大体そういう車に限って運転手もブスか醜男で、バンパーに宗教色の強かったり、国粋主義的なステッカーが貼ってあって、あ、これはまさしくこう考えるべきではないというもののお手本ですが、運転も乱暴で、ブスか醜男で...多分孫の世代とかに言われるんだろうな。お前らが無駄に環境破壊したせいで気候がおかしくなったって。ああなんて我々はみんなアホなんだろうか。これも現代の消費文化のせいだ...

言いたいことはわかると思います。

スーパーや渋滞の中で、先のようなことを考えるのもありです。実際我々の多くはそうしています。でも、そう考えることは、簡単で自動的すぎて、選択しているとはいいません。いわばデフォルト設定です。何も考えず、自分がセカイの中心にあると無意識に思い込み、自分の感情と欲求が物事の順序を定めているという理解のもと、つまらない、イライラする、混雑した生活を過ごせば、自然とそうなります。

当たり前ですが、同じ状況でも全く違う見方をすることもできます。例えば、渋滞の中で、周りのSUVに乗っている人の何人かは、過去に凄惨な事故にあって以来トラウマで、カウンセラーのすすめにより事故にあっても比較的安全な大きいSUVを運転することを勧められているのかもしれません。例えば、今乱暴な運転で横入りしたハマーの中には、怪我をした、あるいは病気の小児が乗っており、運転しているのは、彼をいち早く病院に届けようと思う父親かもしれない。そしたら、急ぐ理由があるのはハマーを運転する彼で僕ではない。むしろ僕こそが彼のジャマになっているのではないか。

または、先ほどのレジの列で、疲れてイライラしているのはみんな一緒で、他の人たちは僕よりもつまらない、無意味に思える仕事をしており、苦痛を感じながら生きている人たちかもしれない。

ぼくは道徳的なアドバイスをしているわけではないです。そういう他人の立場に立った生き方をするべきだとか、自動的にみんなそれができるべきだとも言うつもりはないです。なぜなら、そう簡単にできることではなく、努力と強い意志が必要で、もし君たちがぼくのようなら、どうあがいても出来ない日というのもあります。

でも大抵の場合、何を考えるか選択する心の余裕があれば、レジで並んでいる、目の死んだ厚化粧の母親が子供を怒鳴る光景を、少し違った目で見れると思います。ひょっとしたら彼女は普段は穏やかなのかもしれない。ひょっとしたら彼女は三日三晩寝ずに、死の淵にある骨髄ガンの夫を看病しているのかもしれない。ひょっとしたらこの女性は低賃金の運転免許交付センターの職員で、昨日自分の奥さんが言っていた「免許センターでトラブりそうだったんだけど、優しいおばさん職員が親切に目をつぶってくれた」人なのかもしれない。もちろん、これらはどれも現実味のないことです。でも、全くありえないことでもありません。君たちが何を考えるかによります。自動的に現実が何かを確信している、つまりデフォルト設定で行動しているなら、君たちは先のぼくのように、イライラしたりムカついたり以外のことを考えないと思います。でも、周りに注意をはらえば、他の可能性も見えてきます。混雑した、蒸し暑い、遅々とした、消費文化の地獄とも思えるスーパーの一場面に、意味を見いだすだけではなく、星々を作り出すような熱い思い、純然たる清い経験、愛、仲間意識、そして心の奥底にある神秘的な一体感に変えることも可能です。

神秘的な一体感ってのは違うかもしれませんが、唯一無二のシンジツ[3]とは、「どう物事を見るかは自分で選択できる」ということです。これこそが君たちが受けた教育が生み出す自由の意味です。「適応力がある」という表現の意味です。何に意味があって何に意味がないのか自分で意識的に決められること。何を信じるか自分で決められること。

少し変に聞こえるかもしれませんが、日々の暮らしの中に無神論というものは存在しません。みんな何かを崇拝して生きています。我々に与えられた唯一の選択は、何を崇拝するかです。神やら神秘的対象 —例えばキリストやアラー、ヤハウェやウィッカの女神、四諦あるいは不可侵の信条— を信じる一つの理由は、大体他のものは全て我々を食い尽くすからです。お金やモノを崇拝し、そこに生きる意味を見いだそうとすれば、いつまで経っても満足することはありません。これは事実です。自分のカラダや美しさ、性的魅力を追い求めれば、自分の醜さに苦しみ、死神がやってくる前に何度も心の死を経験することでしょう。我々はこの事実を一定のレベルで理解しており、神話、諺、決まり文句、警句、寓話として表現されています。「イイ話」の骨組みです。大事なのは、この事実を我々の意識の中に常にとどめておくことです。

権力を崇拝すれば、我々は脆弱を恐れ、いつまでも、さらなる権力を欲するでしょう。知性を崇拝すれば、知的に見られることでかえって自分の無能さを自覚し、自分はまがい物だと感じ、いつかそれがバレるのではないかと怯えて生きることとなります。こういったタイプの崇拝がやっかいなのは、邪悪だとか罪深いとかいうわけではなく、無意識に行われているということです。デフォルト設定の崇拝なわけです。毎日毎日少しずつ、気がつかないうちに自分の判断基準が狭まっていくことにすら気がつかないタイプの崇拝。

さらにやっかいなのは、いわゆる現実社会は、君たちがデフォルト設定で生きていることをよしとしています。というのも、いわゆる現実社会は、人とカネが、恐怖、怒り、苛立ち、欲求、そして自己崇拝の渦の中で、楽しくやっているものだからです。現に現代社会は、こう現代社会のエネルギーを利用して、巨万の富と快適さ、個人の自由を実現しました。セカイの中心にぽつんとある、1人1人の頭の中の、頭蓋骨サイズの自由の王国。確かにこういった自由は大事ですが、自由の定義は他にもあります。欲求と達成にとらわれた社会では無視されてしまう自由です。その中でも特に大事な自由が、まわりに注意を払い、意識的にものを見つめ、自制心を持つことで得られる自由。誰にも見えないところで、毎日毎日、自分以外の人々のことを思い、彼らのために犠牲をはらい生きる自由。

それこそが本当の自由です。それこそが本当に教育を受けるということです。それこそが自分の頭で考えるということです。無意識、デフォルト設定で、小競り合い、モノやカネを持っている持っていないに執着する無限ループの対極にある生き方です。

この話が、他の卒業スピーチのように、楽に聞ける楽しい話でも、インスピレーションにあふれる話でもないことは承知しています。今日の話は、ぼくが考える修辞学的なまやかしをひっぺがしたシンジツです。君たちがどう思うのも自由です。ただ、説教くさい高尚な長談義だと決めつけないでほしい。今日の話は、倫理とか、宗教とか、教義とか、死後の世界といった勿体ぶった話ではないのです。

シンジツとは、死の前にある生のためのものです。

シンジツとは、本当の教育の本当の価値のことです。それは知識とはほとんど関係のないもので、たった一つのコトに集約されます。限りなくリアルで、根本的で、でも我々の目にはなかなか見えず、絶えず自分に言い聞かせなくてはいけないコト。

これは水です。

これは水です。

意識的に、社会人生活を日々送ること。これが非常に難しい。「教育は一生の仕事だ」という、これまたありふれた表現になりますが、事実なのです。そしてその教育は、今、この場所で始まります。

幸運以上のものを、君たちに祈っています。


  1. "perspire"という単語をここで使う語感は、「汗をかく」よりも「発汗」の方がよい気がしたので。
  2. 原文では設定を"adjust"するということと、「適応能力に優れた」という意味の"well-adjusted"をかけたくだりがあるのですが、日本語では意味をなさないので削除しました。
  3. 原文では"capital tee truth"つまり"Truth"となっていて、これには哲学というか認識論(epistemology)的な意味合いが含まれているんですが、これをどうやったら日本語で表現でいるのかわからないかったので、カタカナに頼った次第。筆者の翻訳力の足りなさ、かたじけないです。