昔からすげーと思っていたJamie Pierreというスキーヤーがいるのだが、破天荒な人で、こんな風に255フィート(77メートル)の高さから飛び降りたりする。
こんな無茶ばっかりしていたら早死にするだろうなと思っていたら、一昨年前に雪崩に巻き込まれて亡くなっていた。
ご冥福をお祈りします。
誰だって偏見があるもんだけど、可能な限りオープンでありたい...
よね?
アベノミクスで支持率もうなぎ登り、(ペギー・ヌーナン相当不在の)日本のレーガン[1]こと安倍首相が、「日本の大学」ではなく「世界の大学」を目指して大学改革をするつもりらしい。
本人のスピーチから引用すると...
まず隗より始めよ。国立の8大学で、今後3年間の内に、1500人程度を、世界中の優秀な研究者に置き換えます。これにより、外国人教員を倍増させます。
大学の経営の在り方も、世界のグローバル・スタンダードにあわせなければなりません。年俸制の導入や、教員の家族が英語で生活できる環境の整備など、経営改革も進めてまいります。
国の運営費交付金などの分配についても、「グローバル」に見直しを行い、大学の改革努力を後押ししていきます。
外国人教員の積極採用や、優秀な留学生の獲得、海外大学との連携、そして、英語による授業のみで卒業が可能な学位課程の充実、TOEFLの卒業要件化など、グローバル化を断行しようとする大学を、質・量ともに充実させます。制度面でも、予算面でも、重点的に支援します。
今後10年で、世界大学ランキングトップ100に10校ランクインを目指します。同時に、グローバルリーダーを育成できる高等学校も、作ってまいります。
という感じに、日本の大学のグローバる化に邁進するらしい。そして、この「国立の8大学で、今後3年間の内に、1500人程度を、世界中の優秀な研究者に置き換え」るという部分が、当然のごとく物議を醸している。
まあほぼ単一民族の日本の国民からしてみたら、驚くのも当然だろう。そしてアカデミアにいる日本人たちからすれば、ただでさえアカデミックポストが減っているのに更に減らすとか勘弁してくれよってところではないだろうか。
ぼくはアカデミアの人間ではないし、そもそも教育問題にあまり興味がないが、安倍首相の言っていること(あるいは言わされていること)が結構トンチンカンなので、少しコメントしておく。
結論から言うと、外国人教員を1500人連れてきても、日本の大学の「国際的評価」は上がらない。
Wikipediaでいろいろ調べてみたところ、世界大学ランキングトップ100といっても色々と種類があるようだ。その中でも"Times Higher Education World University Rankings"というランキングの手法はすぐ見つかったので、ここに翻訳してコピペする。(ちなみに"Times Higher Education World University Rankings"1位・2位は、安倍首相のランキングの1位・2位と合致するので、おそらくこれのことじゃないかと推測している。)
| 全体指標 | 個別指標 | 比率 |
|---|---|---|
| 産業からの収入およびイノベーション |
|
|
| 国際的多様性 |
|
|
| 教育(学習環境) |
|
|
| 研究—量・収入・評判 |
|
|
| 引用数(研究のインパクト) |
|
|
ぱっと見てすぐ分かるのが、「サーベイによる研究評価」と「サーベイによる授業評価」、そして「論文の標準化された引用インパクト」の3つだけで15+19.5+32.5=67%、つまりスコアの3分の2以上が確定してしまうということだ。ひるがえって「1500人外国人研究者ぶっこみ計画」によって即時達成される「外国籍スタッフと国内スタッフの比率」、そしてあべっちが頑張ると言っている「生徒の国際化」で達成されるであろう「外国籍生徒と国内性との比率」は、2つあわせても5%でしかない。ハナから頑張るところを間違えているのだ。
ところでここにあるサーベイだが、授業にしても研究にしても、評価の客観性・公正さなどを考慮すると、大学の部外者の意見が大きな比重を占めるはずだ。彼らがどんな基準で授業や研究を採点するのかわからないが、教員や生徒に非日本国籍の人間が増えたからといって、急に研究や授業の質が向上するとは思えないし、もしそれでサーベイの評点があがるのだとしたら、そんな表皮的な基準に振り回される日本の研究者と学生は可哀そうである。
そして一番大きな比重を占めている論文のインパクトだが、これこそ国籍がどこであるかよりも、どれだけ優秀な研究者を集められるかだろう。もちろん優秀な研究者が日本国外にたくさんいるのは分かっているが、その何人が、日本が招聘しうる1500人に含まれるのだろうか。彼らは往々にして手厚い環境でのびのびと研究をさせてもらっており、わざわざ極東の、言葉の通じない、原発でどれだけ汚染されているかもわからない国にくる理由は全くないと言っていい。[2]そんな無謀なプロジェクトにエネルギーを浪費するよりも、大好きな日本食と、言葉が通じる安心感に後ろ髪をひかれ、海外からの熱いラブコールを断り続けている優秀な日本人研究者の待遇を改善したほうが、日本の大学の「国際的評価」は上がるのではなかろうか。
とにかく、日本人教員を外国人教員と何人置き換えても、日本の大学の「国際的評価」は上がるとは信じ難い。
これを言ってしまうと元も子もないのだが、世界大学ランキングなんていうくだらないものに振り回されている[3]時点で、安倍首相の大学改革は先が暗い。さっきから「国際的評価」にカギ括弧をつけているのは、評価基準として無意味だからだ。
安倍首相は、スピーチの中で、外国人研究者の招聘の他にも、留学を促すとか英語力の向上などを提唱しているが、そんな意識がハイな話をしなくても、日本の大学の改善点は一杯ある。就職難もあいまって、大学3年生の途中から学生がロクに授業も出ずに就活に奔走する問題とか。そもそも授業を真面目に聞いている学生が少ないとか。修士や博士を取ることが就職にプラスに働かない怪異な現象とか。どれも対外のグローバルな課題ではなくて、国内の、よりシビアな問題だ。安倍首相が本当に「まず隗より始めよ」と思っているのだったら、海の向こうを臨む前に足元を見るべきだろう。
自民党的にも、首相的にも「誰でもわかった気になれる達成目標」が欲しいのだろうが、そんなものに振り回されているほど今の日本に余裕はあるのだろうか。
ぼくは今晩、「日本も捨てたもんじゃない」と思えた。否、確信できた。
売春は歴史の原理だとか意味分からんことを言う政治家はいるけれど、日本もまだまだ捨てたもんではない。
一昔前の(なかなか不評だった)朝日新聞のジャーナリスト宣言ではないが、ぼくはやっぱり言葉のチカラを信じています。
ちんげきのきょこん!
母の日である。
毎年覚えているほどの孝行息子ではないが、ブログのネタに困ったら母親の話題を書くほどにはマザコンなので、母の日にちなんだ話でも書こうと思う。
なにがなんでも母親がぼくに覚えてもらいたかったことが3つあった。英語・スキー・ピアノである。英語は14歳の時にアメリカに強制連行されたことで覚え(どう英語を学んだかについてはココに書いた)、スキーは毎冬連れていってもらったおかげで、自然と上達した。今でこそ年に一度くらいしか滑らないが、純白の山麓を見下ろしながら急斜面を駆け下りる時の快感は、いつやっても最高である。
そしてピアノに関してなのだが、これは自発的にはじめたものだ。幼稚園の年長の時の年度末の行事で、有志による音楽発表会みたいなものがあった。先生の「ピアノを弾きたい子はいるかな」という問いかけに、数人のクラスメートが手を挙げたのを見て、ぼくも参加することにした。
当時から日本人らしい奥ゆかしさなど微塵もなく、右手で「チューリップ」が弾ける自分はピアノができると自負していた。そして、幼稚園から帰ってきたぼくは、真っ先に我が家のヤマハに向かい、来たる発表会に備えるべく、「チューリップ」の練習を始めた。もちろん右手オンリーである。そして母親と多分こんな会話をしたはずだ。
—あら、ピアノ練習してるの。
—うん、音楽発表会があるんだ。
—何ひくの?
—チューリップ!
—へえがんばってね。
そして数日後、「チューリップ(右手オンリーversion)」をマスターした僕は、意気揚々と登園した。
演奏順は、ぼくが最初だった。床にギリギリ足がつくかどうかの椅子に座り、ぼくは威勢良く「チューリップ」を弾き始めた。緊張で汗ばんだ左手は、膝にぴたっと乗っている。
ドーレーミードーレーミーソーミーレードーレーミーレー
ドーレーミードーレーミーソーミーレードーレーミードー
ソーソーミーソー...ラーソーミーミーミーレーレードー
最初の手の位置から1鍵分右に指を動かさなくてはいけない「ラ」の前で少しつまったが、それ以外は完璧な演奏だった。
少なくとも、自分ではそう思っていた。クラスメートの反応は覚えていなかったが、みんなそれなりに空気を読んで拍手をしてくれていたはずだ。少なくとも担任の先生は、惜しみない拍手と賛美の言葉を送ってくれていた。
観衆の中に戻り体育座りをした僕は、自分の出番が終わったことに安堵し、クラスメートの腕前を拝見することにした。が、次の演奏が始まって少し経ち、鍵盤の上を華麗に舞うクラスメートの両手(そう、両手!)を眺めているうちに、ぼくは悲しい現実と向き合うハメになった。
一般的な基準で言えば、ぼくはピアノが弾けなかったのだ。
茫然自失の状態で家に帰り、半泣きで母親に「ピアノ教室に行きたい」と嘆願したのが、ぼくがピアノを始めたきっかけである。以来、大学に行くまでピアノを弾き続けることになった。
大人になった今思えば、幼稚園の演奏会で「チューリップ」を弾くと言ったぼくに対して、母親は「そんなの弾いても恥をかくだけだからやめなさい」と諌めることもできたはずだ。だが、彼女はぼくのやりたいように発表させ、自分の目と耳で己の実力を確認させ、自分の意志でピアノを始めさせた。あの時、母親に止められていたら、おそらくピアノ教室に通うことはなかっただろう。結局はまんまと母親の策に嵌まったわけだが、音楽に対する興味と、それ相応の素養を得るきっかけをくれたことには感謝している。
ぼくが育ってくる過程で、うちの母親は常に「英語・ピアノ・スキーの3つができるとモテる」と吹聴してきた。ぼくはその通りに育ち、英語も堪能で、ピアノも弾けて、スキーもできるようになったのだが、これまでモテたことなど唯の一度もない。つまり母親の言っていたことはデタラメだった、という話を先日知り合いにしたところ、こんなツッコミが返ってきた。
え、でも〇〇君、自分から言わないよね。スキーができることもスキー行くまでわからなかったし、ピアノが弾けるなんて今日初めて聞いたー
たしかに。別にこれは母親が嘯く三種の神器に限ったことではないが、自分からアピールができなければ人は気づかないわけだ。どんなスキルも、効果的な自己アピールが伴ってこそ、正しい評価が得られる。ぼくは他人を持ち上げるのもdisるのも得意だと思うが、こと自己アピールとなるとヘタクソなのかもしれない。
ということで、女性各位に連絡です。ぼくはピアノが弾けますし、スキーも教えられますし、英語はすんげえ上手です!合コン・デートのお誘いはiloveyoutodeath@ktamura.comまでお願いします。[1]
Happy Mother's Dayである。
その数46万1千人だそう。まあ人口も多いからなあ。
最近仕事が忙しくてウェブを放っておいたら、Gunosyが炎上していた。どうやら火元は、自称「ベンチャービジネスのインサイダー」[1]の人が書いたこのブログ記事らしい。
断っておくと、ぼくはGunosyのユーザーではないし、それこそ自分のブログの記事がはてブやツイッターで流行ると、Gunosyで流れているらしいという程度の関わりしかない。[2]ただ一連の話を一通り読んでみて思うことがいくつかあったので、まとめておこうと思う。
まずはGunosyだが、炎上に対する説明として書かれた「ここ最近のGunosy関連の批判についての所感」を読むと、彼らがPRに関してずぶの素人であることがわかる。これが実に惜しい。なぜなら書いてある内容—たとえば「Gunosyが配信するコンテンツが、はてブで流行った記事が大半を占めている→Gunosyははてブの再編集にすぎない」という批判者のロジックがデタラメなこと、配信内容が偏っているのは、現時点でのユーザーコミュニティの趣向の偏りによる蓋然性が高いということ[3]—は正しいものばかりだからだ。
ということで、社会人の少し先輩として、少しアドバイスをしたい。
そもそもこの釈明文の発信者は、マーケティング担当の竹谷くんではなくて、CEOであるべきだ。もっと正確に言えば、たとえマーケティング担当の竹谷くんがまるっと書いた文章でも、CEOが書いたものとして、自社ブログに載っけるべきである。アホンダラたちによる今回のGunosyに対する誹謗中傷の規模を考えれば、CEOが直々に説明するのが筋である。というか、そうすることがPRの正しいやり方だ。これだと、たとえそんな意図が全くなかったとしても、「CEOは何やってんだ。マーケティングの担当者に釈明させて終わりか」と捉える人も少なからず出てくる。
こういう大事な文章は、投稿する前に、誤字脱字・文法の誤りがないかきちんとチェックしたほうがよい。この文章、急いで書いたのだろうが、文法のミスが目立つし、何より読みづらい。大事な場面でよい文章を書かないと、会社のイメージに悪く影響する。
NAVERまとめの記事を配信しなかった理由について、竹谷くんはこう書いている。
そもそも批判に悪意が感じられた。(まとめの作者をみてもGunosyを批判するためだけに作られたアフィアカウントであると断定できるレベルであった)またアルゴリズム等の実情があまりにも事実と大きく異なっている内容であったこと、そしてバズりやすい批判でアフィリエイトで稼ぎたいだけなのではないかと疑ってしまったこと
竹谷くん、これではマーケティング担当失格だ。君の正直さは評価したいが、こんなことを書いたらGunosy批判者たちの格好の標的である。PRにおいて大事なのは、会社の内情をぶちまけることではなく、会社の評判を守り、企業価値の維持・向上に貢献することだ。ここにあげた理由は、どれもGunosyを矮小で姑息な会社にみせる。そんな理由付けしか思いつかないならブログに書かずに、素直に謝罪するだけにした方が、ずっと印象がいい。相手のアホンダラが恣意的だからといって、自分たちまで同じレベルに成り下がって恣意的な発言をしたら負けだよ。
次にGunosyを批判しているアホンダラたちだが、彼らに対しては、Gunosyの竹谷くんに加え、いろいろな方々が的を射た指摘をしているので、僕から加えることは特にない。
ただこれだけは言いたい。あんたらアホだろ。
なんではてブと内容が大きくかぶっていることから、「Gunosyははてブの再編集にすぎない」と断定的に帰結できんねん。相関関係と因果関係の差もわからないなら、誹謗中傷なんかするな。第一、はてブの再編集にすぎなかったら、配信するまで丸一日遅れるとか、どれだけGunosyのはてブクローラー走るのおそいねん。
誹謗中傷をしないというのは、意外と難しい。誰だって、自分の知的優位性を示したいという願望は少なからずあり、相手の誤りを明らかにすることほどその願望を満たす行為は少ない。ただ、その絶対条件として、自分の知見が正しく、相手の知見が間違っている必要があり、今回はそれがまったく当てはまらない。機械学習に関しても、基礎の基礎の論理的な思考力に関しても、間違っていたのはGunosyではなくて、安易な誹謗中傷に走ったアホたちの方だ。
Gunosyの批判者たちに関しては以上だが、最後に苦言を呈したいのは、世間一般だ。
Gunosyに限ったことではないが、日本の土壌はとにかくスタートアップに冷たい。よく日本にはスタートアップ投資のエコシステムがないとか、労働力の非流動性がスタートアップに不向きだとか言われる。それはもちろん正しいが、おそらく一番の問題は、エリートから落ちこぼれまで、スタートアップに好意的でない人たちが大半だということだ。
考えてみてほしい。今回のGunosyの問題は、一言で言ってしまえば、「一部のユーザーにとって思っていたよりもサービスの質がよくなかった」というだけだ。たったそれだけの問題なのに、大の大人たちが鬼の首をとったかのように、去年の12月に登記したばかりの赤ん坊スタートアップを血祭りにあげている。「出る杭は、自分のチンケなトンカチで打ってヘコませることが出来そうだったら、あるいは別の人が既に打ってちょっとヘコんでいたら、打つ」日本の悪習の最たるものだ。
スタートアップなんて道ばたを駆け回る蟻のようなもので、放っておいても災難にあって死ぬものがほとんどだ。あえて追っかけまわして踏みつぶす必要があるのだろうか。
古賀洋吉さんというベンチャーキャピタリストが、グローバルな英語とは何かについてこう書いている。
本当にグローバルな場での真剣勝負のビジネスにおいて重要なのは、
- ビジネスレベル以上の英語(重要度: 20%)
- 言った事がちゃんと相手に伝わっている事を確認できること=コミュニケーション力 (重要度: 80%)
というのが実感である。
言いたいことはなんとなくわかる。ビジネスレベル以上の英語が何なのかは置いておいて、彼の言う「言語に関わらず、フェアさ、謙虚さ、真摯さを核とするスキルの集合体」としてのコミュニケーション力というのが存在することは、日米どちらかが祖国かわからない程度に米国に長く居住し、多様なバックグラウンドの人たちに囲まれてきた者としても理解できる。
だけどやはり腑に落ちないのだ。英語力とコミュニケーション力にキレイに分けてしまっている古賀さんの理論。
少なくとも個人的な経験から言えば、コミュニケーション力というのは、独立した抽象的な概念としては存在せず、必ず特定の言語に紐づいているものである。ぼくは日本語も英語もたぶん同じくらいできる(あるいはできない)のだが、日本語でコミュニケーションをとる友人たちに言わせれば、ぼくの日本語での会話は概して「オチがなく」「意味がわからない」そうだ。だが今まで一度もそんなことを英語で話す友人たちに言われたことはなく、むしろ「お前の唯一の取り柄は、実はマヌケなのに、あたかも賢いように話すことができる」そうだ。断っておくが、たった一つの、それもすごい主観的な反例を濫用して、古賀さんのフレームワークを反証しようというわけではない。ただ、一応ふたつの言語の間でバランスを取っている人間としては、ひとつの言語に重心を置いている人間の言うことを、真に受けるのは難しい。
コミュニケーション力のひとつのかたちとして、彼はこうも言っている。
つまりどういうことかというと、「自分に相手を合わせさせないで、自分が相手に合わせる」英語が最も重要だということである。言語だけではなく、ミーティング以前に「何を着て何を持っていけばいいのか」も非常に気にする。自分の常識が相手の非常識・失礼になる可能性をよく認識している。ミーティング開始時、「申し訳ないですが、私は英語しかできません。私の英語が早すぎたり、わからないことがあったら止めて質問してください。気をつけてますが、忘れてしまうことがあるので。」と言う人もいる。
これはまさしくその通りで、人間は自分と似た人間に好感を持つというのは、心理学で言われていることである。古賀さんも言っているように、服装から話し方から英語を母語としない人間への配慮まで、相手と極力あわせることは、良い人間関係を生み、ビジネスを成功させるためには欠かせないだろう。
相手とあわせること—それは、非常に英語が上手な人と会った場合も一緒だ。
もし、その英語が達者な人が、古賀さんの言うような思いやりのある人で、自分の英語力に自在にあわせてくれる人なら、それはそれでいいと思う。ただ、本当にこちらが相手を思いやるなら、相手に「この人の英語のレベルにあわせよう」と思わせないですむだけの英語でコミュニケーションを図れるに越したことはない。相手が英語ができる人であればあるほど、普段相手のレベルまで下げて英語を話しているはずで、もし彼・彼女の本来のレベルで会話ができるようにこちらが努力できれば、強く印象に残るに違いない。あの人、日本人とは思えないくらい英語が上手だったなあと。
やっぱり「英語力」と「(英語での)コミュニケーション力」って、分けて考えられるものではないと思う。
ここまで書いて思ったが、古賀さんとぼくとでは、「英語力」の定義というものが少し違うのかもしれない。彼は後半でこう書いている。
もちろん、英語の発音やで文法が完璧で、ネイティブレベルであるに越した事がないのは当たり前だ。しかし、そこに引きずられすぎると、言葉は所詮ツールでしかないという事実を見失ってしまう。発音が完璧か、文法が完璧か、英語的に自然な表現か、といった外から見える形にばかり目が行く気持ちもわからなくもないが、真剣勝負のコミュニケーションにおいては外から見える部分よりもっと大事な事がたくさんあることを軽視してはいけない。
ぼくはアメリカに住んで14年になるが、英語の発音も文法も完璧ではない。ただ村上春樹のふりをしてYelpのレビューも書けるし、鬱に苦しむアメリカ人の友達をチャット越しに笑わせることもできるし、日系アメリカ人相手にツイッターで一本とることもできる。[1]そういう意味では、自分は相当英語ができると自負しているし、それは単なる発音や文法や表現といった「英語力」に因るものでも、空漠とした「コミュニケーション力」によるものでもない。多分、「言葉は所詮ツールでしかない」と割り切れず、言葉に対して愚かしいほど強い想いを持ってきたことの結果だろう。
ぼくはビジネスのことはよくわからない。古賀さんの言うとおり、ビジネスの真剣勝負の世界では、英語の細やかな表現だとかユーモアだというものは大事ではないのかもしれない。どう言うかよりも、何を言うかなのかもしれない。でも、これだけは言っておきたいのは、言葉は所詮ツールでしかないと思う人間が、英語を高いレベルで習熟することはなかなか難しいだろうということだ。
英語に限ったことではないだろうけど、言語そのものだって「外から見える部分よりもっと大事な事がたくさんあること」を、コトバを愛してやまないブロガーとしては、知っていただきたいのです。
なんか最後、椎名林檎みたいになっちゃった。
先日、東京に行った時のことである。
10時間強のフライトで疲れた体と、10日分の荷物が入ったスーツケース[1]を引きずりながら、ホテルがある池袋に向かうべく、羽田空港からモノレールに乗り、浜松町で山の手線に乗り換えた。
1秒でも早くチェックインして寝たいのだが、ドアの真上のディスプレイに映し出される到着時間の目安を表示した図を見ると、あと30分ほどかかるようだ。そのままディスプレイを凝視していても発狂するだけなので、視線を落とし、これ以上疲れないようにぼーっと待つことにした。
—この合コン企画、まじ面白いと思わねw
—ゴリおまえ本気か。
男2人の声が左前方1メートルくらいから聞こえた。「合コン」という単語と、スラムダンクを連想させる「ゴリ」という呼び名に注意を惹かれ、つい目を開けてそちらの方を見てしまった。ゴリと呼ばれた男は、顔だけゴリラで、体格は小さい。身長は170センチもないだろう。灰色のツイード生地のキャスケットを被り、黒ぶち眼鏡をかけている。古着の黒いジャケットはしっかりボタンが留めてあり、くるぶしまで折った黒っぽいジーパンと、赤いローファーを履いている。プチゴリラなりのお洒落なんだろう。もう1人の男の方が心持ち背が高いだろうか。薄いグレーの地味なジャンパーにチノパンという出で立ちで、オードリーの若林とほっしゃん。を足して2で割ったような顔をしている。要は全て薄い感じ。
—いや絶対ビビるよな。
—そりゃそうだよ、俺がその場にいたらすげービックリするよ。
—でもな、意外とわかんないと思うよ。
2人とも、まるで担任の先生にイタズラをしようと目論む中学生の悪ガキみたいな顔をしている。
—てかゴリ、向こうの了承は得てんの?
—ああ結構乗り気だったよ。あ、でも。
—あ、でも?
—シラフだったら大丈夫だけど、お酒が入ると自信ないって。地がでちゃうかもって。
それを聞いたほっしゃん若林が肩を上下に微振動させて笑う。
—地がでちゃう、かー
—結構大丈夫だと思うんだけどな。4人中3人は正直わかんないぜ。
—ほんとかよー
—ほんとだよ。その3人のうちの1人なんか梨花にそっくりだぞ。
—へぇ、梨花。り・ん・か。
—てか意外とさ、1人くらい女っぽくない方が騙されんじゃね?
—自己紹介した時に、実は女性陣1人だけなんか違いませんか的な!
—そうそう!
—でもってさ、そうなんです、アタシ実はみたいな!
—でもってそこで安心するってやつね。
—残り3人は流石に女の子でしょって。
—それでガチで3人にアタックしてお持ち帰りとかなったらウケるな。
—ウケるな。
—ビックリだろうな。
—ビックリだろうな。
—いやー楽しみ。
趣味の悪い冗談のような気もしたが、オネエたちとしても、女性に見間違われてアタックされるのは、まんざら悪い気分はしないのかもしれない。
—じゃあ日にち決めよう。
—おう、おれ何人か声かける。いつがいい。
—彼女たち、日曜しか空いてないんだよな。
—大丈夫だよ。世の中だいたい日曜は休みだよ。
—じゃあ今週の日曜ね。
—うっす。
—じゃあ俺ここだからおつかれー
—おつかれー
神田でゴリが降りると、ほっしゃん若林の顔からさっと笑いが消えた。
まだ神田である。池袋とか遠過ぎだと思いながら僕はふたたび目を閉じた。
Guardian紙のData Blogより。差は歴然。でも北朝鮮の人たち、社会基盤がひどい割には意外と長生きだったりする。そもそもデータが正しく取れているか疑問だったりするのだが。