2019-09-23

政治に関心が無いことは悪いことなのか

日本人の政治への無関心さがよく各種メディアで取り上げられる。そして、無関心さを嘆き、政治への参加を求める若干左寄りのエリートインテリたちの声が、SNSにこだまする。概ねそういうエリートたちは、大衆主義に反駁し、靖国参拝に憤り、投票を促し、様々な角度から日本沈没論を唱える。

「日本沈没」とか書いたら、筒井康隆のショートショート「日本以外全部沈没」を思い出した。本来思い出すべきは小松左京な気もするが。

話が早速逸れた。

確かに、他の適度に民主的で、経済的に豊かな所謂Gナントカに入る国の中では、日本人は政治に関心が薄い方だ。それに比べ、筆者が住むアメリカは、来年大統領選を控えているということもあり、どこに行っても政治の話で持ちきりだ。トランプという、今までの政治思想ベクトルの斜め上を行く男の台頭が、それに拍車をかけている。将来トランプの功罪がどう評価されるかはまだ分からないが、少なくともアメリカ人の政治的関心を集め、反トランプメディアの旗手となったNYT紙の株価を大幅に引き上げたというのは、間違いなく功績であろう。罪の方を上げたら既にキリがない気もするが、この話こそ本当に本題から逸れるので、将来の誰かの為に取っておこう。

筆者も政治について読んだり考えたりするのは好きな方である。毎日ニュースには一通り目を通すし、時間があれば、自分が住んでいる地域の政治的話題もググったりする。税金を納め、地域・国の構成員として暮らしている以上、いい方向に向かってほしいと思うし、常に全体最適化を求められる政治というプロセスそのものを面白いと感じている。

しかし、アメリカで、友人たちと政治の話をすることはまず無い。政治的な話題を振られた時には基本的に流そうとするし、それでも意見を求められれば、曖昧に返事をしておく。

なぜか。政治の話をするなど、友人関係に於けるリスクでしかないからだ。

筆者の周りにいる人たちは、ほとんどが沿岸部のインテリである。沿岸部のインテリは99.9%が反トランプであり、もはやそこに議論の余地はない。ちなみに筆者はトランプ支持者ではないし、2016年もクリントンに一票投じた。ただ、今の民主党の考え方にも賛同できないところは多々あるとも感じている。これはおそらく筆者に限ったことではなく、多くの人にとって、政治的関心というのは一人一人少しずつ違うニュアンスを持つものであり、だからこそ討論されるものだ。が、今サンフランシスコやニューヨークで、もしトランプの法案のひとつにでも賛同しようものなら、おそらくその人はトランプ支持者のレッテルを貼られ、社会的に弾劾されるだろう。いわゆるオールオアナッシング状態である。先月、沿岸部インテリ企業の代名詞Googleが社内での政治的な会話を控えるように促し、1ヶ月もしないうちに憲法違反だろーと政府から咎められるという壮大なアメリカンジョークに、アメリカの矛盾が美味しく詰まっている。

だから筆者は政治の話をしない。幸いそんな話をしなくても、友人たちとの話題には尽きない。しかし、あくまで筆者が選べるのは自分の言動だけである。SNSを開けば友人たちの政治的コメントが流れてくるし、会えばそりゃあ聞かれることもある。そういう時には流すしかない。国民の義務より、コミュニティの形成員としての配慮である。こう考えているのは、筆者だけではないと思う。そして、知らず知らずのうちに、議論は消え、二極化が進み、大多数の穏健派は声を失っていく。

そう考えると、日本の人付き合いは楽だ。仕事やプライベートで、支持政党の話が上がることはない。いわゆる意識の高い話も、抜き打ちで会話に登場する政治的審判に比べたら、はるかに向き合いやすい。意識の低い話なんて、心のマッサージである。皮肉っているわけでもなんでもなく、結果的に民主的システムの機能不全に歯止めが効かないのであれば、日本の省エネアプローチも良いのではないかと。

政治への参加は、間違いなく民主制の骨子だ。ただ、政治への真の意味での参加は、投票することだけではない。政治のあり方について、みんなが心置きなく話し合えるプロセスの方が、むしろ重要な筈で、投票はその結果でしかない。その大事な民主的プロセスが崩れる音をアメリカの片隅で聞きながら、悟り切った日本人の政治的無関心を、羨ましいとすら思うのである。

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