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シンゾー・アベの英語演説、そしてやっぱり偉大なリー・クアンユー

安部首相が4月29日にアメリカ議会でした演説が、話題になっている。すかさず民主党議員が、「日本国の国会議員として、この上なく米国議会に恥ずかしい」とちゃちゃを入れて炎上する一方で、ぼくの周りにいる在米日本人たちは、概ね高評価だ。「日本人として誇りに思う」、らしい。

「日本国の国会議員として」、「日本人として」。

安部首相の演説は、見方によっては恥ずかしいかもしれないし、誇らしいかもしれない。つたない発音で原稿を読み上げただけだという見方もできれば、第二次世界大戦を悔いる声明を、アメリカ上下議員全員の前で、しかも英語で読み上げたというのは、歴史的だという見方もできる(ひょっとしたら朝日新聞と安倍晋三が初めて同意した瞬間かもね)。

いずれの見方にしても、個人的に残念だったのは、安部首相の演説が、アメリカ人がアジア人に期待するステロタイプを超えるものではなかったことだ。

少し穿った見方かもしれないが、このアメリカという地で、アジア人というのは従順な働き者としてみられている。アメリカに自由を求めて移民し、差別にもくじけず頑張り、アクセントを馬鹿にされても笑ってすませ、理不尽なことがあるかもしれないが、数世代を経て、アメリカのイデオロギーを受け入れ、同化していく。安部首相の演説を聞いていると、そのつたないアクセントと、盲目的なアメリカ信奉のことばに、アジア系移民の親たちを重ねてしまう。「馬鹿にされてんだよ、お父さん。わからないの?」

アメリカというのは中二病な国で、崇高な建前と、ドロドロの本音の狭間でもがいている国だ。だが、そんなことはお構いなしに、持ち前の空元気と、唯一無二の軍事力で、光り輝く銀メッキの理想を、世界中に押し付けてきた。戦後の日本は、アメリカ聖戦の恩恵と被害を、十二分に受けた国のひとつだろう。そして、安部首相の演説は、その国のリーダーとして、米国の理想を米国のリーダーに対して反芻するという、想定の範囲内のものだった。

日本人にとっては、この安部首相の演説は、歴史的な瞬間なのかもしれない。ただ、日本人として過ごした時間よりも、アメリカのアジア人として過ごした時間の方が長い筆者にとって、アメリカ議会で話す安部首相は、一人の従順なアジア人にしか映らなかった。失礼を承知で言えば、ありふれた光景過ぎて、感想すらないのである。

こういう演説を見るたびに頭をよぎるのが、今年3月に亡くなったリー・クアンユーだ。英国ケンブリッジ大学で法学を修め、冷戦下の東南アジアで、30代にしてシンガポールという小さな都市国家のリーダーとなったリー・クアンユーは、アメリカ人の偽善と欺瞞を鋭く揶揄できた、数少ないアジア人のリーダーだ。ベトナム戦争中、アメリカの報道番組"Meet the Press"に出演したリーは、彼のベトナム戦争への姿勢を聞き出したいアメリカ人ジャーナリストたちの意地悪い質問を華麗にかわし、舌鋒鋭く反撃した。

安部首相の演説と、リー・クアンユーのインタビューをあえて比較すれば、ぼくがより勇気づけられるのは、後者だというのが本音だ。アメリカで生きるマイノリティとしては、2015年の安倍演説は、過去の残滓でしかなく、1967年のリーのインタビューは、未来への軌跡なのだ。

日本のリー・クアンユーが現れるのは、果たしていつだろうか。

2015-05-02