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思うこと。言うこと。

人生で一度だけ廊下に出されたことがある。

小学校五年生のとき、中学受験のために通っていた進学塾でのことだ。算数の授業で、T先生が黒板に書いた図形に、いたずら真っ盛りだったぼくはいちゃもんをつけた。

「先生、問題には『正三角形』って書いてあるけど、それ全然正三角形になってないし」

板書の手をとめ、振り返ったT先生の顔からは、いつもの温厚な笑顔は消えていた。そして、静かな声で言い放った。

「◯◯(ぼくの名前)外に出る」

「お前廊下に出ろ!」でも「ふざけるな!」でもなく、「◯◯外に出る」。最初は何が起きたのかわからなかったが、先生の口調がいつものですます調ではなかったことや、さっきまで和やかだった教室の空気がカンペキに凍りついたことから、マジで教室の外に出ろと言っていることを察した。ぼくは席を立ち、T先生に誘導されるまま教室の外に出た。

「なんで外に出されたのか考える」

先生はそう言って、引き戸を静かに閉め、授業に戻った。その教室の扉には、20センチくらいの正方形の窓がついており、教室の中を外から見れるようになっている。ぼくは窓にへばりつき、授業の様子を見守った。ぼくがからかった不格好な三角形は、そのままだった。ぼくの座席には、開きっぱなしのノートとコクヨのHBの鉛筆が放置されていた。そして、ぼくが急に消えたにも関わらず、何事もなかったかのように授業が進んでいくことが、少し悲しかった。

30分は経っただろうか。T先生が、板書を止め、ぼくの方に歩いてきた。ドアの小窓越しに目があった。さっきと同じ、静かだけど真剣な目だった。ガラッとドアを開けた先生は言った。

「なんで外に出されたか考えましたか?」 「はい」 「なんでですか?」 「わかりません」

正直なんで外に出されたのかわからなかった。確かに先生を作図をからかいはしたけれど、そんなやりとりは今まででも日常茶飯事で、「えええ今さら!?」という感じだった。当時のぼくには、わからないことをわからないと言える傲慢さと素直さがあったようだ。先生はため息をつき、こう言った。

「いいですか。これから人生を生きていくうえで、いろいろと思うことはあるでしょう。でも思うことと言うことは違います。何を思っても、それを伝えない限り、それは君の自由です。でも思っても口にしてはいけないことも沢山あります。ぼくは、君に作図をバカにされたから廊下に出したのではありません。君の態度に、思ったことをそのまま口にしてしまった軽薄さを感じたからです。思うことと言うことは違います。いいですか。」

その当時は、作図をからかったくらいで何とも大げさなことを言う先生だと不思議に思ったが、とにかく教室に戻りたかったので、素直に謝って自分の席に戻った。教室はざわつくことすらなく、無言でぼくの帰還を受け入れた。授業を再開したT先生の後ろ姿は、いつもどおり温厚だった。

廊下に出されてから15年近く経った今、T先生の言っていたことが身にしみてわかる。思うことと言うことは違うなんて極めて当たり前のことだが、自分も含め、口にすべきではないことをつい言ってしまうということは度々ある。昔と違うのは、社会人となった今、発言のひとつひとつに社会的な責任がついてまわるということだ。自分の発言に責任を持つということは、わかっているつもりでもなかなかできないことである。「あんなこと言うんじゃなかった」と思う度に、T先生の言葉が脳裏をよぎるのだ。「思うことと言うことは違います。いいですか。」


こんな話をしたのは、高岡蒼甫と宮崎あおいの離婚のニュースを読んだから。離婚の発端は、高岡のアンチ韓流発言による解雇処分とのことだ。思ったことを言ってしまった代償は大きい。

2011-12-28