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リヴァイアサンに斬鉄剣

NO科学者の茂木健一郎さんが、日本の教育システム、特にペーパーテスト偏重の入試のシステムを批判している記事を読んだ。有名人の嘯くデタラメなど黙ってやり過ごすべきなんだろうが、いくつか僕の心に近いところで支離滅裂なことを言われて腹が立ったので、なるだけ冷静に説明したい。

ちなみにこのエッセーのタイトルだが、彼が引き合いに出しているリヴァイアサンが、Thomas Hobbesのものだとは考えられないので(だって説明が無茶苦茶なんだもん)、多分ファイナルファンタジーの召喚獣の方だと空気を読んだからだ。グングニルで刺してもいいけれど。

まず、茂木さんは、まつもとゆきひろさんに謝るべきだと思う。ご本人も仰っているように、まつもとさんは、入学試験を受け、一定の点数を取り、筑波大学情報学群へと進学されたはずだ。それがモギイズムにかかると、こう曲解される。

ここで茂木氏は、オブジェクト指向スクリプト言語「Ruby」を開発したまつもとゆきひろ氏を例に出し解説した。「まつもとさんが高校3年生のとき、数学の成績は10段階で1だったそうです。筑波大学が入学を許可してくれましたが、普通にペーパーテストで評価したら1ではさすがに入学できない。しかし、まつもとさんはRubyを作りました」

まつもとさんは、高校の時に父親が買ってきたラジオ雑誌の、プログラム言語の仕様書を見てプログラム言語を学んだ。「要するに、プログラミング言語のオタク。ピンポイントにそこが得意なんです」。

こいつ何もわかってねえなと思ってしまうのは僕だけだろうか。確かに、まつもとゆきひろさんはプログラミング言語のオタクだが、Rubyがここまで流行ったのは、彼が「ピンポイントにそこが得意」だからでは断じてない。(もちろんプログラミングは相当得意だろうけど)

皆さんはRubyが何年前から開発されているかご存知だろうか。1993年の2月、19年以上前からである。実は、Javaよりも古い言語なのだ。

ただ、一般の方はもちろんのこと、技術者たちですら、Rubyを広く認知しだしたのは、この10年くらいのことである。じゃあそれまでの10年近くはどうだったのか。

当たり前のことだが、その間も、まつもとさんをはじめとするRubyのコミッターの方たちは、議論に議論を重ね、問題があれば修正し、コツコツ言語およびそれを取り巻くコミュニティを育てていたのだ。

プログラミング言語を書くことはカンタンなことではないが、優秀なエンジニアなら、手の届く範囲のものだ。現に、毎年毎年、数多くのプログラミング言語が提唱・実装され、そのほとんどが、インターネットの藻屑となっていく。

Rubyがここまで流行ったのは、もちろん運もあるだろうが、根本的な理由は、(流行ることがゴールではなかったにせよ)流行るまで諦めなかったまつもとさんの忍耐力と、コミュニティを運営し続けてきたエネルギーだ。そういったメディア的にはあまり面白くないけれど肝心なことをすっ飛ばし、Rubyの成功を、まつもとさんの言語オタク性に一元的に結びつけてしまうのは、まつもとさんにも、Rubyを支えてきたコミッターの人たちにも、ひいては様々なオープンソース活動を地道に支えている人たちにも、大変失礼なんじゃないだろうか。

茂木さんの、アメリカの大学入試に関する発言も、目を疑うものが多々ある。

米国の大学入試に偏差値という概念はない。ペーパーテストで予想がつく入試を行っていないからだ。例えばハーバード大学の入試要綱を見ると、ひとつの分野で優れた能力を持ったり可能性がある人が歓迎される。

確かにアメリカの学校システムには、偏差値という概念はない。ただ、アメリカで高校・大学を過ごしたものとして一つ言いたいのは、偏差値がないからといって、偏差値的なものがないというわけではない。茂木さんが、道化師でないからといって、道化師的でないわけではないのと一緒である。

例を挙げよう。大学時代の友人の1人は、学費をまかなうために、Admissions Officeでバイトをしていた。毎年何万通と来る入学志願書を仕分けしたり、Personal Statementと言われるエッセーのようなものを読んだりして、入学審査官を手伝うわけだ。

その彼に、一度、合否判定のプロセスはどんなものか聞いてみた。茂木さんのように、当時はぼくも、「志願者の個性を吟味するアメリカのシステムは素晴らしい。それに比べて日本の大学入試はなんだ。ぷんぷん!」と考えていたので、Admissions Officeの中で繰り広げられるであろう、積み重なった志願書の山に埋れた多様性やら個性を見いだす魔法のプロセスとは何なのか興味があったのだ。だが、彼の答えは、悲しいほどに夢のないものだった。

「基本的には高校時代の成績とSATを元にしたスコアだね。学校名とか地域とかも考慮した、ソフトな足切りみたいのがあって、足切りに近い人たちに関しては、エッセーとか推薦状を重点的に見たりとか。まああと、数学オリンピック出たとか、オリンピック選手だとか、本当に一芸に秀でているんだったら下駄を履くけどさ...」

成績もSATもイマイチだったけど、エッセーカウンセラーにも誰にも頼らず、今考えると笑ってしまうような稚拙で間違った英語で書いた「ぼくはピエロである」というPersonal Statementの個性が評価されて合格を勝ち取ったと思っていた僕は、ショックだった。個性を評価されて、この大学にいることを許可されたと思いたかった。

「あ、でも、もちろん取る科目とかもきちんと見るよ。だって二次方程式を解くのと、多変数微積分をやるのでは、全然難易度は違うからね!そこは吟味しないとね^^」

そんなことどうだっていいんじゃい。ニジホウテキシキだろうが、タヘンスウビセキブンだろうが、お前が見ているのは単なる「スコア」やんけ。

その日以来、「アメリカに来て3年弱の日本人にしては、学校の成績もSATも、よくがんばったね」という理由で自分は大学に入ったのだと思うようになった。Personal Statementに、ピエロの話を書こうが、リヴァイアサンの話を書こうが、蒼井優の話を書こうが、多分ぼくは受かったのだ。

実際、アメリカの高校に通い、一流の大学に進学しようとすればすぐわかることだが、アメリカの大学入試のシステムも、日本に負けないくらい没個性だ。基本的にストレートAでないと、超一流大学の狭き門をくぐるのは困難なので、超一流を目指す子供たちは、これでもかと競争し、ライバルを蹴落とし、すべての教科で一番になろうとする。また、先生たちに良い推薦状を書いてもらう必要があるので、これでもかとゴマをする(たまに天然で、努力せずとも教師のペットになれる人もいるが、稀である)。

確かに「ひとつの分野で優れた能力を持ったり可能性がある人が歓迎される」が、そういう人は概して学校の成績もよく、教師陣の評価も高い。「ひとつの分野で優れた能力を持ったり可能性がある」だけでは、ハーバードはもちろんのこと、いわゆる有名な大学には受からないという例が、僕の高校時代の友人だ。いわゆる天才肌で、一夏過去問をやっただけで、アメリカ数学オリンピックで7位(予選は、受験者10万人中2人満点のうちの1人)という驚異的な結果を残した。しかし、学校の成績も、生活態度も目も当てられない状況だったので、どこの大学にも受からず、結局地元のコミュニティカレッジに進学している。[1]

学級委員タイプ超優等生作戦以外に、超一流大学に行く方法がもう一つある。コネだ。コネにも2種類あって、親族が卒業生だとか、多大な額の寄付をしているといった個人レベルでのコネと、一部の名門高校は、名門大学との間に太いパイプを持っており、生徒全員がそれなりに下駄を履くグループコネだ。[2]

別にぼくはアメリカのシステムを批判しているわけではない。当時在米3年あまりの僕にも、言語的なハンデも加味したうえで席をくれたアメリカのシステムは、寛容だった。が、アメリカのシステムが個性を育て、日本の大学入試が個性の芽を摘むという主張には、疑問を感じる。

日本の入試のいいところは、1発(あるいはセンターも含めて2発)試験をクリアさえすればいいというところである。さらには、浪人というかたちで、2回以上トライすることもできる。高校の成績が芳しくなかろうが、先生にあまり好かれてなかろうが、本番のテストで結果さえ出せばいいのだ。[3]

ひるがえってアメリカはどうだろうか。先ほども述べたように超一流大学に進むためには、高校の4年間、教師たちのペット・アイドルになりきる必要があり、良い成績を修め続ける必要がある。これには相当な忍耐力が必要だし、時として、先生を満足させるために、自分の個性をぐっと抑えなくてはならない。生徒の個性をおおらかに許容し、正しく評価できる良い先生ばかりではないのだ。全ての教科で良い成績をおさめ、紋切り型の生徒活動をし、教師におべっかを使うのが、個性を育てる環境なのだろうか。

つまり何を言いたいかと言えば、日本の入試システムの方が、アメリカのシステムより、「どう高校生活を過ごすか」という点では柔軟で、ひょっとしたらもっと個性を育てやすい環境なのかもしれないということだ。確かに、ぶっつけ本番のペーパーテストで合否を決めるという評価基準そのものは、窮屈かもしれない。でもアメリカは、似たような窮屈さを、高校生活全体に薄く伸ばしてあるだけで、本質的には大差ない。一つの巨大なペーパーテストで判断される日本と、あまたのくだらない作業の積み重ねで評価されるアメリカ。五十歩百歩である。

「ひとりひとりの個性を生かせるのがいまの時代。個性を伸ばすのは偏差値とはなじまない。これがリヴァイアサンの本質」として、茂木氏は「1万時間の法則」を挙げた。

脳回路は生まれつき何かが得意な人はおらず、習慣によって形作られるという。あることに1万時間取り組んだら、その分野で専門家として生きられるだけの力が身に付く。例えば数学が苦手なら、1万時間、数学を勉強すればなんとかなる。問題はどの分野に自分の時間を、脳で考える時間(ブレインタイム)を投資するかという選択だ。

例えば、アップルは「考え方をシンプルにし、ひとつのことにリソースを集中する」ことで成功を収めた。それは人生も同じだ。リヴァイアサンとして輝くためには、ある特定な分野において絶対的な自信が必要だ。特定の分野で余人の追随を許さないだけのブレインタイムを投資しているという自信が、リヴァイアサンとして輝きにつながるという。

(リヴァイアサン、リヴァイアサンうるさい!大海嘯には斬鉄剣!)

はい出た。エセ知識人定番の、グラドウェル10000時間の法則と、「アップルを見てみろ」理論である。ぼくは、中学・高校時代は、広く学ぶことが重要だと信じている。[4]広く深く学べるのが一番だが、「広く浅く」と「狭く深く」だったら、絶対に前者の方が良い。

理由は簡単で、生きていくうえで、高いコミュニケーション能力は、何にも勝る武器であり、幅広い知識と考え方を身につけることで、より多くの人たちとコミュニケーションが取れるようになるからだ。英語を勉強するのは、外国の人と意思疎通をはかるためだし、世界や日本の歴史を学ぶのは、外国の人の背景を理解したり、外国の人に自分の背景を説明するうえで、良い土台となる。自然科学を学ぶことで、自分たちが生きているセカイのことをより深く知ることができるし、何より、人類の先端にたって日夜研究に励んでいる科学者たちの話す暗号が、少しだけどわかるようになる。

数学だってコミュニケーションの道具だ。14歳で、英語が一言もしゃべれない状態で渡米したぼくは、クラスメートの数学の宿題をやり、代わりに英語の間違いを指摘してもらっていた。@dankogaiの「与えよ、さらば求められん」ではないが、ニューヨークという新天地で、ほとんど何も与えるものがなかった僕にとって、数学は、頼もしい道具だった。

中学・高校で、いろいろな科目を勉強させられるには、理由があるのだ。

実際、すごい発見というのも、一見関係がなかった分野を紐づけ、新しい分野として昇華させることで生まれる場合が多い。だが、そういうアプローチをとるためには、幅広くアンテナを張っている必要があり、様々な分野の人間とコミュニケーションがとれる必要がある。一つのことに執着する人たちが沢山いることは素晴らしいが、彼らを生み出すアウトプットを組み合わせれば、もっと素晴らしいものができるのだ。

育っていく過程で、プログラミングでも、蝶の研究でも、数学でも何かに没頭できるというのはかけがえのない経験だし、是非してほしいと思っている。でも、何かに深く没頭することと、幅広い見識を身につけることは、二者択一ではない。


この長ったらしい文章をここまで読んだ人の感想は、以下の3つに大まかに分類されると思う。

  1. バーカ。お前茂木健一郎博士の言うことが何もわかってないな。
  2. よくわかる!茂木さんの言うことってムチャクチャだよね!
  3. 言いたいことはわかるが、お前の言っていることもいろいろと変だぞ。

筆者的には、3の読者が増えてほしい。ぼくは一介のしがないブロガーなので、ぼくが何かを言ったからといって、人がそれを鵜呑みにすることはないだろうが、茂木さんのように影響力のある人が、自信たっぷりに知ったかぶりをすると、世の中の人たちは、その内容を満足に吟味せずに信じ込んでしまうことがよくある。これは大変よくない。人はみんな自分のアジェンダを持ち、それに従って行動しているのだ。発言者の動機や立場を吟味することは、相手の話す内容を理解するうえで不可欠である。

ここまで書いて思ったんだけど、斬鉄剣って一瞬でスパって斬るんだよね。これ、全然斬鉄剣じゃなかったなあ。


  1. そいつは、大学を卒業後、その頭の回転の速さと数学の実力を買われ、トレーダーとなり、今はニューヨークにある知る人ぞ知るヘッジファンドで、ポートフォリオマネージャーをやっている。もうウハウハである。それまでの人生がムチャクチャでも、学歴がたいしたことなくても、本当にピカイチのスキルを持っていれば、人生が開けていくというのは、アメリカ社会のいいところかもしれない。ただし、相当すごいスキルがないと駄目だが。
  2. 日本の入試は一発勝負でアンフェアだと言われるが、コネまみれで、主観が大分入るアメリカの入試がフェアかと言ったら、それも疑問である。そもそも何がフェアかなんて、見方によって劇的に変わる。ひたすら日本のシステムはアンフェアだと吠えるのではなく、どこがどうアンフェアなのか、具体的に議論したうえで、入試のシステムをぶっ壊すのではなく、アンフェアだと思われる部分を少しずつ改善していくのが、建設的なアプローチなのではないか。例えば、入試問題が原則的に日本語であることや、4月入学による試験のタイミングの悪さによる、外国人への敷居の高さがアンフェアだと言うならば、試験問題を英語で提供したり、年間に複数回試験を行えばよい。
  3. よく、日本の大学入試の問題はトリッキーで本質的ではないと言われるが、こと理系科目に関して言えば、アメリカの大学の中間・期末試験も、大分トリッキーだったりする。特に、難関大学とされるようなところだと、ありきたりの問題を出してもみんな高い点数を取ってしまい、成績をつけるのが難しくなるので、あえてトリッキーな問題を盛り込むことで、成績の差別化を図ろうとすることがしょっちゅうある。物理のクラスを取ったのに、最終的には、期末試験でメンドクサイ重積分ができるか否かで、成績がAになったりBになったりするなんてこともあるのだ。
  4. 読者の中には、大学に行かなかった人もいるかもしれないし、高校の代わりに、高専に行った人もいるかもしれない。中には中卒の人もいるだろう。中学あるいは高校で、幅広く学ぶことが大事と言っているわけではなく、ある時点で、幅広く知識や考え方を身につける時間をとった方がいいという話で、多くの人の場合、その時期が、中学・高校時代と重なるのではないかと考えている。

2012-10-03