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「文章の書き方」は人生の生き方

先月、およそ15年ぶりに、辰濃和男さんの「文章の書き方」を読んだ。

ページをめくる度に、「おーこういう内容だったのか」と驚いてばかりいたので、以前読んだ時にはほとんど何も理解していなかったに違いない。意味を把握したという点では、はじめて読んだといった方が正確だ。

辰濃和男さんは、1975年から1988年まで朝日新聞の天声人語を執筆していた方で、朝日新聞随一のエッセイストと評価されている方だ。[1]「文章の書き方」は、彼の考える良い文章を書くための準備や心がけをまとめた本なのだが、いわゆるハウツー本ではないことは、まえがきを読めばすぐわかる。

...とくに考えてみたいのは「文は心である」ということです。正確にものごとを見る訓練をおろそかにしている人が、はたして正確な文章を書くことができるでしょうか。大自然と遊ぶたのしさを知らない人が、人の心をとらえる自然の描写をすることができるでしょうか。品性のいやしさが顔に現れている人が、品格のある文章を書くことができるでしょうか。ひとりよがりなことばかりをいっている人が、目配りのきいた、均衡のとれた文章を書くことができるでしょうか。表面はごまかせるかもわかりません。しかし心のゆがみは、その人の文章のどこかに現れます。

これは筆者にも耳の痛い忠言だ。以前、quippedでも、スティーブジョブズの伝記を読まず、そのうえ原著のミスがそのまま邦訳されていると早とちりし、修正の余地もないヒドい記事を書き、各方面に謝り、散々悩んだ結果消したことがある。いい加減な気持ちで文章を書いてはいけないというのは当たり前のことだが、それを100%守るのはたやすくない。

では、どういう手順を踏めば、後で後悔しない、質のよい文章が書けるのか。そのヒントが続く200ページあまりに豊富な具体例と共におさめられている。筆者がなるほどと思った箇所を数カ所引用したい。

現場に行くことの重要さについて:

現場に行く。現場でものを見る。見て、見て、見る。そのことの大切さはいくら強調しても強調しすぎることはないでしょう。読書百遍、意おのずから通ずという言葉がありますが、私は「現場百編、意おのずから通ず」と思っています。

腰を軽くしましょう。何でも見てやろうの精神でゆきましょう。見ないで後悔するよりは、見て後悔したほうがまだましです。見て後悔をしたのならば、少なくとも後悔の理由はわかります。

数年前、ドキュメンタリー番組情熱大陸の中で、マザーハウスの創業者である山口絵理子さんがこう言っていた。「私、第2、第3の情報って信用しないんです。だってそれって主観じゃないですか。」何もないところから、バングラデシュのジュートでハンドバッグを作るというブランドを生み出した彼女は、ウルトラ現場主義だ。もちろん、それが必ずしも正しいとは言わない。現場をはなれ俯瞰してみて初めてわかることもあるだろう。ただ、現場を知らない人間に、現場を語る資格もないというのも事実だ。

先日も、ツイッターで、スタンフォード大学のコンピューターサイエンス学科に在籍する日本人が、韓国人や中国人と比較して少ないことを嘆いている方がいた。どうやら何十年も前に渡米し、アメリカで活躍なさっている方のようだ。なぜ嘆いているか聞くと、アメリカのエリート大学院に進む日本人が減ることは、日本の国際競争力の低下を意味するとのことだった。

この方に限ったことではないが、海外にいる日本人、特にエリート志向の人たちは、みな口々に憂国論を唱える。「もう日本はダメだ」「若者は向上心が足りない」でも、彼らの何人が、日本という現場、日本の若い世代という現場を、自分の目で見つめているだろうか。日本国内の優秀な学生と、なぜ彼女/彼が留学しないのか膝をつめて話をしているのだろうか。そもそも日本人がアメリカの大学院に行くことが、日本の国際競争力をどう高めるのか。仮にそうだとして、日本にとって国際競争力を高めることは、大事な課題なのだろうか。現場を知らない人の意見は、往々にして薄っぺらい。それでも、やたら肩書きが立派だと、もっともらしく聞こえてしまうのだから、困ったものである。ぼくは日本の若者と日々接していないので、どうだこうだ言えない。ただ、所属機関や肩書きのサポートで渡米し、日本に向けて「でわのかみ」の舞を踊り続けてきた人なら何人か知っている。アメリカに留学しない日本の学生よりも「でわのかみ」の方が問題だと思うのは、個人的な偏見かもしれない。

均衡について:

南太平洋の島じまやニュージーランドへ行き、ゆったりとした日々を送り、成田空港に戻ったとします。税関を過ぎたことから、なぜか私の心臓の鼓動が速くなる。売店でいくつかの新聞や週刊誌を買う。「激白」「不倫」「騒然」といった見出しが目に突き刺さります。鼓動はいっそう速くなって、苦しくなるほどです。ああ、いま心臓はこの過密国・日本に適応しようとしてとどまっている、と思いつつ家路につきます。不均衡な、奇妙な社会に立ち戻ったという気分があります。

では、均衡感覚を磨いてゆくにはどうしたらいいか。我田引水といわれそうですが、いい文章を書く訓練を自分に課することが、均衡を大切にする習慣を身につける訓練になると思います。

ぼくは去年の9月にこのサイトで文章を書き始めたのだが、それ以降、いかに自分の考え方があやふやで幼稚か気づかされている。幼稚さはいくつかのかたちで顔を覗かせる。情報の不確かさ、一辺倒な意見、配慮の欠如、曖昧な言い回し。自分の考えや心の機微を文章におこすというのは、なかなか難しい作業だ。定期的に文章を書くことは、アタマのフィットネスといっていい。そんな問題だらけのぼくの思考回路だが、quippedで文章を書きはじめてから、少しは考え方のバランスがとれてきている気がする。

日々の生活でイライラしている人がいたら、定期的に文章を書き、公開することをすすめる。インターネットで公開するのが恥ずかしければ、近しい人たちにあてたメーリングリストでもいいと思う。大事なのは、自分以外の読者がいることだ。自分だけの日記だと、見栄というか、毅然さというか、しゃんとしたものが文章からなくなり、心情の吐露で終わってしまう。「これを違う人が読んだらどう思うだろう」ということを考えて文章を書くと、いろいろな角度からものが見えるようになり、(少なくともぼくは)心が落ち着く。あと一つメタなことを言えば、定期的に文章を書くということは、それだけの自由な時間を持つということだ。いざ書き始めてみればわかるが、文を紡ぐというのは、けっこう時間がかかるものだ。それだけの自分の時間が持てる生活に自分を持っていければ、イライラも少しは改善されるのではないだろうか。

言葉の嗅覚について:

...気のきいた言葉はいつか腐ります。(中略)

腐ったものを使わないですむ方法は、言葉の嗅覚を鋭くすることです。自分がいま使おうとしている言葉は、気がきいているようでも腐りはじめていないか、と鼻をきかせる習慣を身につけることでしょう。

文章を書く以上、かっこよく書きたいもので、かっこよく書こうとすればするほど、気のきいた言葉を多用するようになる。でも、どんなに気がきいた言葉も、時間が経てばありふれた言葉へと老化し、加齢臭をはなつようになる。

先の引用は、言葉の腐敗臭を嗅ぎとるということだったが、言葉のにおいは腐敗臭だけではない。言葉の芳しさと青臭さ、香ばしさと焦げ臭さは紙一重だ。ぼくの周りで、文章の上手な人たち、外国語をマスターできる人たちというのは、言葉の嗅覚に優れている人たちだ。


ここまで書いて気がついたのだが、この本に書かれていることは、文章にとどまらず、人生そのものに関するアドバイスとなるものばかりだ。現場を見て、自分で体験して初めてわかるというのは、なにごとについても言えることであるし、均衡に関するくだりは、まさしく人生のアドバイスそのもので、文章を書くことが人生の均衡を保つ触媒となるという主張だ。そして、嗅覚を研ぎすませておくことは、その対象が言葉であっても、社会の流れであっても、頭ひとつ抜きん出るうえでは欠かせない。

この本のすごいところは、書いてある内容を自ら実践しているという自己参照性だ。辰濃さんの文章は、具体的で、謙虚で、ゆとりがあり、知見に富んでいる。「文章の書き方」というタイトルは、少し不遜に聞こえるかもしれない。でも、この本が、文章の書き方をはるかに超え、人生の生き方の指南書になっていることを考えると、むしろひかえめなタイトルに感じる。[2]


  1. 「朝日新聞随一のエッセイストってすごいの?」と疑問を持つかもしれない。そんな人こそ「文章の書き方」や、辰濃さんが書いた天声人語を読んでみてほしい。
  2. もし「文章の書き方」がトラフィック目的のブログであったならば、さしずめタイトルは「よりよい人生を送るための10の方法」とかだろう。

2012-01-14