2012-12-10

半ズボンの方がずっと軽いんです

仕事で麻布に来ている。

「なんだお前麻布にいるのか。だったら六本木高校の裏に、本場物のチキンライスの店があるから行ってこい!」と知り合いに言われ、よくよく考えると、そもそもチキンライスなんて槇原敬之とダウンタウンの歌でしか知らないので、どこがどう本場物なのか確かめたくなった。グーグルマップを頼りに辿り着いたのは、六本木高校のグラウンドに面した質素な店構えの店だった。

店内に案内され、ドアから直進したところにある二人席の、ドアに面した方に座った。本日のスペシャルである南蛮カレーに若干気移りしたが、チキンライスを食べにきたわけなので、やっぱりチキンライスを注文した。手元のメニューには、チキンライスの食べ方が図解されている。

カバンに入っていた本を5−10ページ読むか読まないかのうちに、チキンライスがやってきた。皿の左手に蒸し鶏が切った状態で丁寧に並べられている。皿のこころもち右寄りの真ん中のご飯は、茶碗に一度盛ったものをひっくり返して盛りつけてあるようで、きれいな半球のかたちをしている。皿のふちを彩っているのはパクチーと2、3切れの夏野菜だ。先ほどの図解によれば、別皿の三種のソースをお好みで足し、蒸し鶏とご飯を一緒にほおばるのが本場チキンライスの食べ方だそうだ。

これがなかなか旨くパクパク食べていたのだが、ふとした瞬間に、ドアに一番近い四人席が目に入った。客は、いかにも麻布セレブのママ2人と、その子供が1人ずつで、ぼくと対面しているほうのセレブママの横に、店長らしき男が立って雑談をしている。小太りのオジサンで、口ひげをたくわえた船越英一郎という感じだ。船越はよく通る声をしており、別段注意を払わなくても声が聞こえてくる。

いやあ、この10年くらいで変わりましたよ。昔は昔でよかったですけどね。なんか近所のお店の人なのかなあ、すごい大きなガイジンでね。一緒にビジネス盛り上げようよって言って、うちのTシャツ来て客の呼び込みをやってくれたんですよ。それこそ、こーんな大きいやつでね、ぼくのTシャツ貸したんですがね、もうパツンパツンで。ここまでしかTシャツの裾が来ないんです。

といって船越は少し出た自分の腹の7−8センチ上に、手のひらを床に向けて当てた。なんだかセレブママの上品な声も聞こえるが、よく聞き取れない。

まあでもヘソ出してね、お客さんに声をかけてもらってね。いいですよね、そういうの。うちもお返しに手伝いましたよ。

そこまで言ったところで、船越は何かに気づいたようで、あっと言い店の奥に一旦引っ込んだ。

東京に来てからというものの、散々町や電車の中で死んだ魚のような目をしたゾンビを見てきたので、船越のエネルギッシュな感じに、少し心が和らいだ。

30秒もしないうちに店の奥から船越が出てきた。両手にあるのは、ベージュ色の膝掛けだ。

すんません。この席ドアのすぐ近くですから、出入りの時に風が吹き込んで寒いでしょう。これでも使ってください。

と言い船越が膝掛けを渡すと、セレブママたちは2、3度続けて頭を下げた。おもてなしと心遣いの国ニッポンとは言え、本当に心あたたかいサービスである。

その時、ぼくは大変なことに気づいた。船越自身は膝までの短ジーパンを履いているのだ。

客の足が冷えないように心配はするのに自分は短パンという対比。これが個人的には超ツボで、ぼくはニンマリしてしまった。

そんなこんなしているうちに、チキンライスを食い終わった僕のところに、船越がやってきた。

—お召し上がりで?
—はい。チキンライスはじめてだったんすが、超旨かったっす。
—あーありがとうございます!
—ところであの前の席のお客さん、膝掛け渡してたじゃないですか。
—はいー
—でもおじさん短パンっすよね。
—そうっすねー店の中にいると全然あったかいんすよ!

笑った船越の目は、硬度Hの鉛筆で2、3回直線をなぞったような細さだ。船越の左耳の後ろに見えるエアコンは、ドアの上に設置されている。巨大なやつで、幅2メートルはあるんじゃなかろうか。そりゃ暖かいわけだ。

—ああ、あとですね、半ズボンの方が楽なんですよ。仕事するときは。
—どう楽なんですか?
—結構こうね、立ったりしゃがんだりするんですよ。こうやってね。

船越は2、3度屈伸をしてみせた。

—これを一日中やっているとですね、やっぱり違うんですわ。半ズボンと長ズボンだと。重さなんですかね。半ズボンの方がずっと軽いんです。

そこまで差が出るものなのかと訝しく感じたが、一日中飲食でフロアをやったことなどないので、船越の言うことを信じることにした。

勘定を終え、船越の「ありがとうございました!」という声を背中に店を出た僕の前にいたのは、白いコートを羽織り、レイバンのサングラスをかけ、バーバリーのマフラーを巻いた女性だった。4匹のポメラニアンを従え、シャネルのヒールを履いて散歩していた。

ぼくは自分が麻布・六本木にいることを再確認した。

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